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航海日誌

「立志・立国」

2024/04/02

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

表題の立志とは、目的を定めてこれを成し遂げようと志すことであり、立国とは、国を繁栄させることである。かけがえのない自分の一生に、いかなる志を持っているかを問うているのである。

さて、私の100年余の生涯を振り返ってみて、志なるものがあっただろうか。ある、ある、強いて言うなら「独立自尊」だといえる。この終生を貫いてきた志・気概はどうしてつくられたかを振り返ってみよう。それに大きく影響を与えたのは、少年時代(小・中学11年間)と、青年時代に遭遇した3年余の戦場の体験であった。

小学1年生を終えた頃、通信簿なるものを渡され母に見せた。品行方正・学力優等・席次1とあり、母の笑顔が見えた。家で教科書を開いた覚えがないのにである。これはきっと、父母の英知の血筋を受け継いでいるからだと思った。その後もずっと、席次1を通した。その所為だろうか、私は皆とは少し違ってなければいけないと意識していたようだ。「和して同ぜず」であり、独立自尊の萌芽であった。

6年生の頃、父から大阪の西野田職工学校へ行くよう勧められた。子供心に職工という名称が気になったが、競争率8倍の有名校と知って入学を決めた。それが私の生涯の仕事につながったのである。

13歳の私に、見知らぬ土地の下宿生活での実地訓練を勧めた父の英断に、今でも感謝している。「可愛い子には旅をさせよ」である。百獣の王ライオンは、産まれた仔を谷底に突き落とし、這い上がってきたものしか育てないというではないか。

中学を終えると間もなく、陸軍で2年・海軍で3年の徴兵の義務があった。ちょうどその頃、海軍では工業学校の機械科卒であれば、徴兵義務を1年で免じる志願制度が発表された。早く社会で力を試したいと父の了解を得て、昭和14年10月、横須賀海軍航空隊に志願入隊した。

「殴って教えるのが海軍だ」と聞いていたが、そこは予想をはるかに超える厳しさであった。「動作が鈍い、気合が入っていない」などと、叱責される都度鉄拳の制裁を頂戴した。普通3年かかる基礎訓練を、1年でやり遂げるのだから当然だったのである。その間、私は常に隊員の先頭集団にいた。1年後には自分さえ見違えるほどたくましくなっていた。もしその1年がなければ、今の103歳の長寿と健康はなかっただろう。運命は自分がつくっていくものだと言わざるを得ない。

基礎訓練を終えて間もなく、昭和16年10月に矢田部航空隊へ入隊した。それを待っていたかのように、日米戦争が始まった。矢田部航空隊は搭乗員養成部隊であった。その雰囲気は、開戦の緊張感とは程遠かった。生ぬるい感に我慢がならず「第一線の戦地に出してくれ」と、上司に申し出た。隊内で私一人だった。

それが私の戦後80年の生涯の仕事につながる運命の出会いとなった。徴用の貨物船に便乗し、マーシャル諸島ルオット航空基地に向かう途中に寄港した占領直後のウェーク島での出来事である。海岸には2隻の日本駆逐艦が乗り揚げており、敵前上陸した戦死者の立て札が林立していた。当時の肉弾戦がいかにすごかったかがしのばれたが、目を転じてさらに画期的な場景を目にした。

半裸の米軍捕虜がキャタピラ駆動の土木建設機を運転し、滑走路の修理をしているのを目撃した。私にはそれらが油圧駆動であることがすぐ分かった。日本が飛行場滑走路を造るには、全て人力(ショベルとモッコ)で2・3年を要したが、彼らはこの機械類を用い、2・3カ月で完成させることが頷けた。すごい国と戦争を始めたものだと知った。だが、この思いがけない場景が戦後の私をつくり、我が社発展のきっかけになっている。

戦後、親子3人で資本金50万円の零細企業を立ち上げた。80年余を経た今日、製品の6割以上を輸出する世界的企業にまで進展した。その主力製品に着目したのが、かつて80年前寄港した、ウェーク島で目にした場景がヒントになっているのを知る人はいまい。運命は遭遇するものだが、それと共に志を持って、自分がつくっていくものである。私の独立自尊の一生は立志・立国の歩みであったといえるのではないだろうか。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘元顧問談(2024年2月)より』

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