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Vol.183 艱難汝に玉にす

2017/06/01

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

「艱難汝を玉にす(かんなんなんじをたまにす)」は私の大好きな言葉であり、幼いころから耳にしてきた。人間は多くの辛いことや苦しいことを乗り越えてこそ立派な人物になれるという例えである。この言葉どおり、艱難が今日の私を創ってくれたのは間違いない。それは、苦を楽に換えるコペルニクス的価値観の転換であったといえる。

誰もが、苦は嫌で楽は好ましく思う。しかし、苦があるから楽が有り難く思え、人生に死があるからこそ、限られた生が貴重に思える。もしこの世に困難が全くなければ、その人生に生き甲斐は感じられないであろう。動物行動学者、コンラート・ローレンツは、「幼い時に、何らかの苦難を味わうことがなかったのは、最大の不幸である」といっている。

順調であることは結構なようだが、実はそれだけ深い気付きに至らないともいえるし、私たちの日常生活にもこのようなことが見られる。ひもじさを味わったからこそ、どんな質素な食事であっても美味しいと感謝できる。病気の辛さを知っているからこそ、健康の有り難さが身に染みる。また困難だからこそ、遣り甲斐がある例は登山にもある。他から苦行のようにしか見えない登山に熱中できるのは、頂上を極めた喜びと、目標達成の「やったあ!」という快感を体感できるからだ。険しいからこそ登り甲斐を覚えて、次にはより高く険しい山に挑戦したくなる。

したがって、困難や苦痛はもとより、失敗や挫折、災難さえも、私たちにとっては成長の糧となり、快楽の材料ともなる。そう考えると、わが身を過酷な環境に晒すことが苦にならなくなり、進んで困難を招き容れる態勢が作られ、「苦即楽」の境地が生まれる。楽しくないことは続かないが、苦痛が快楽になると続けずにはいられなくなる。継続は習慣となり、習慣は期せずして人格を形成するに至る。人格は運命を作り変え、人生を創造してくれる。

臆面もなくこのようにいえるのは、私の体験から絞り出されたエキスだからである。その始まりは、殴って教える海軍伝統の、一年間の基礎教育だった。「動作が鈍い、気合が入っていない、娑婆(しゃば)っ気が抜けていない」などと怒鳴られて、毎日のように鉄拳の洗礼を受けた。しかも、チームワークを基本とするため、仲間一人のミスであっても、その洗礼は洩れなく一律だった。

私は何をやっても常に、隊員の先頭集団にいたから、制裁を受けた夜はハンモックに入ると、その悔しさに涙した。涙というのは涸(か)れるもので、やがて「少々殴られたぐらいで、めそめそしては情けないではないか」という反省が生まれた。「ようし!いかなる制裁を受けようとも、怯むような俺ではない、いくらでも受けてやる」という積極的な態勢が生まれ、「苦即楽」の転換となった。

以来、鉄拳の制裁が少しも苦にならなくなっただけでなく、一年後の私は、我ながら見違えるほど、精神、肉体ともに強靭さを身に付けた若者になっていた。今でも、96歳の私が矍鑠(かくしゃく)として居られるのは、あの時、厳しく鍛えてくれたおかげであると感謝している。

「苦即楽」の転換ともいえる次なる体験は、昭和19年1月、私はゼロ戦の整備下士官として、ラバウル基地にいた時のことである。連日、100機を超す戦爆連合の敵機の来襲があり、我が戦闘機隊はこれと互角に戦っており、私も無我夢中で戦闘に従事した。やがて我が方は、人員機材ともに補給が細まるに反し、米軍の増強は著しくなり戦況は日増しに悪化していった。

戦場に来たからには、一命を捨てる覚悟をしていたが、死が目前に迫るのを感じると、夜毎に言い知れぬ恐怖に悩まされた。どう考えても、この戦いで生きて帰るのは万が一もあり得ず、いずれ近い内に死は免れないだろう。どうせ生きられないなら、徒(いたずら)に死を待つのでなく、潔くこの世とお別れしたらどうか、祖国の平和と家族の平安のために一命を捧げるのは、男子の本懐ではないかと思えるようになった。途端に、心に付きまとっていた恐怖が消え、恐れるものが何もない、晴れ晴れとした気持ちになったのを、昨日のことのように憶えている。それはまさに、死中に活を得た転換であった。

戦争体験からは語り尽くせないほど多くの「苦即楽」の転換があった。それが、戦後の私の人生にどれだけ影響したかを述べてみる。戦後、私は親子3人で小さな企業を興したが、運営を任された私には、満足な学問も技術もなく、あるのは海軍で身に付けた、率先垂範と「苦即楽」の転換の法だけだった。

しかし、小さくとも、企業の経営者として相応しい人間に仕立ててみようと、まず試みたのが禁煙であった。禁煙さえもできないで、どうして自分を伸ばすことができようかと力んで始めたが、禁煙はあまりにも容易だった。さらに厳しい試練を課すべきと、アラームなしの早朝5時起床を行い、2キロのジョギングを日課と定めた。

これも難なく実行に移せたのは、その時すでに、怠けた時の一日中の不快さよりも、実行できた日の快適さが勝るのを実感していたからだ。さらには、故・金子香川県元知事との対話がきっかけで、ジョギング後の冷水浴を自らに課した。これには抵抗感が伴い、断続的ながらも続けはしたが釈然としなかった。

さらに、正月の元日は庵治の海岸で、3日には大的場の海で泳ぐのを年中行事としたが、プールと違ってその壮大さは格別だった。94歳まで、元日の水泳は49年間、3日の泳ぎは32年間休みなく続けられた。一年を先取りした爽快な思いが体に満ち、やり終えた後の喜びは到底言葉に尽くせない。

困難や苦痛はもとより、失敗や挫折、災難さえも、私たちにとっては成長の糧となる。艱難を受け容れ、乗り越えることによって自らの成長をもたらし、輝く玉のような人間になれる、まさに「艱難汝を玉にす」である。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2017年3月)より』

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