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Vol.54 介護について ~夏越の祓の水無月~

2001/06/01

今月の質問者:伊藤 美香さん(名古屋支店)~いい季節がやってきましたね。海に山に川へとアウトドアが大好きな私。今年も間違いなく【真っ黒】です。地黒との噂もありますが・・(^^;

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我が家は、四世代7人が同居している今では珍しい"大家族"です。我が家も、最近では当り前になってきていますが、介護を必要とする祖母がいます。軽い痴ほう症状から始まり、徘徊こそありませんでしたが、食事・入浴・排せつに介助が必要となってから5年程経ちました。

当初は慣れない介護に四苦八苦し、精神的にも肉体的にも祖母を含め家族全員が大変な状態でしたが、お互いに気遣う感謝の気持ちを持ち、家族が支え合い、又介護保険制度を上手に利用し、長い長い道程でしたが今ではゆとりを持って生活しています。

しかし、多くの家庭では、する側もされる側も不安・孤立感・多大なストレスなどを抱えています。私自身も親も、いつかは介護が必要となるかもしれません。お年寄りみんなが幸せで平等に介護が受けられるような社会になってほしいと思います。

介護する側・される側の心構え。老後の迎え方。今後の介護保険のあり方など、相談役はどのように思われますか?少し暗い話しになってしまいましたが、誰の身にでも起こり得る事だと思いますので、是非何かアドバイス下さい。


今年の戦友会の案内に、いつもは同伴者とあるのに、付添人となっている。やっぱり付き添いが要るようになったか。他人事ではない。(多田野 弘)

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介護についての問題は、私たちにとって避けることのできない課題であり、同時に私たちの老後をどう考えているのかを問われている。あなたの言われるように、誰にとっても共通の大問題であるが、それぞれ家庭の事情が異なり、人生観の違いもあるので一概に言えないのだが、勇を鼓して私の考えを述べてみる。

我が家もあなたと同様に、三世代7人同居していたが、母は94歳まで生きたので、介護がいかに大変であるかを身をもって知っている。ただ、母の死に至るまでの生きざまは、私に大きな教訓を与えてくれた。母が長く生きたことよりもっと素晴らしかったことは、死ぬ直前まで、周囲の人たちや家族の者にまで「ありがとう」の言葉を忘れることがなかったことである。私も母のような死にざまが出来るだろうかと深く考えさせられた。

深沢七郎の小説、「楢山節孝」が映画化されたことがあるが、昔の農村では、しきたりで、働けなくなった老婆は子に背負われ、山に捨てられに行くという姥捨山の言い伝えがあった。母もその姥と同様、学問はなかったが、従容として死を受け容れた悟りの境地は、私には到底真似することができない。

さて、多くの家庭では、介護について尽きることのない不安と孤立感、ストレスを抱えていると思うが、どうすればそれらの問題を解決できるだろうか。不安と言うのは、「もしそうなったら」という嫌な予感を巡らす事から起こる恐怖心であって、そう思えば思うほど不安は無限に広がる性質を持っている。一旦取り付かれると始末が悪いが、そうした不安感から逃れるにはどうすればいいのか。

自分の身辺に起こる出来事は凡て、良いことも悪いことも、好ましいことも嫌なことも、自分にとっては必要な出来事として受け取ることである。どうせ避けられないんだから。世の中の凡ての出来事は、因があって、それが縁に触れ、結果として現れ出てくるのであって、悪い出来事の中にも良い因子が含まれており、良い出来事の中にも悪い因子が潜んでいるかもしれないのである。「塞翁が馬」の例えにあるように、幸いの中に不幸の種が潜んでおり、不幸の中に幸いの種が隠れているのである。だから、幸いも不幸も実はないと言えよう。

孤立感だが、人間はもともと孤独な存在なのである。あなたが、頭痛がするといくら説明しても、親でさえもその痛さを感じ取ることが出来ないように。私たちは孤独ではあるが孤立していないのは、私たちは親兄弟はもとより、友人や隣人、多くの人たちに支えられ、またその人たちを支えてあげているという共生の場を作っているからである.。そうした共生の場を持たず、他の誰にも尽くすことをしないことから、誰からも無視され、自ら孤立感を招いているのである。

ストレスというのは、医者も薬も効かない厄介な心の苦しみである。不安や孤立感もストレスの原因になるが、それの解消法については長くなるので次ぎの機会に譲るとして、主題の老後の迎え方について述べなければならない。

私も満80歳を超えたので既に老境に達しているのだが、自分には未だにその自覚がないので困っている。ただ言えることは、老後の迎え方を語るには、その後に来る死の迎え方が分かっていなければ役に立たない。まずどんな死を迎えたらいいのかを決めないで、老後を語る資格はない。また、ある年齢に達したから老後を考えるのでは手遅れなのであって、むしろ青年期にこそ老後はこうありたいという、夢や希望を持って生きていくべきである。

私は現在、体力は多少老化してきたが、心の状態は青年期とあまり変わっていない。青年期に海軍で鍛えられ、太平洋戦争に参加したお蔭で生死の境を彷徨し、九死に一生を得てからは、とっくに死んでいるはずの自分が、今生きておられるのは自分の力ではない、偉大なる大自然の生命力によって生かされているのだ。以来、1日1日が余分の命だと思えるようになった。だからいつ命が終わろうとも文句を言えた義理ではないと自分に言い聞かせているので、不安も、孤立感もストレスも起こりようがないのである。

私がこんな話しをすると、「あなたは若い時、軍隊や戦争に行ったからそんな体験ができたのであって、私たちには体験できないから、あなたのような心境になれない。」と言う。そこで私は、「人間は誰でも、遅かれ早かれ死があることは知っている。私も同様に、戦場でいずれそのうちに死を迎えることになる、生きて帰ることは万が一にも考えられないと覚悟したが、死の迎え方に皆さんとどれほどの違いがあるだろうか。自分の死を見つめることから人生を見極めることができるのであって、限りある命を分かることから、さればどのように生きるべきかが分かるのである。」と答えることにしている。

いずれにせよ、限られた命だから、できるだけ善いことをして、最後にいい生涯だったと満足できるならば、たとえ野垂れ死にしても悔いはないのではないかと思う。

航海日誌