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Vol.76 運命とは

2003/04/01

今月の質問者:黒川 正樹さん(製造部生産管理課)~ひ・久しぶりに写真撮ったけど・・自分で見ても入社当時と全然違う・・時間とは恐ろしいものですね~。

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今までに何度か運命的な物を感じる時が何度かありました。しかし自分的には否定的。そんな何者かに決められた様な未来が本当に存在するとは思えなかったからです。でも結果的に見るとそれの存在を無視することはできないとも思っています。

運命とはどんな物か?それはどんな人にでも役目や役割が何かしらあるのではないかと思うのです。

そこで最高顧問に質問です。運命と言うものを信じますか?信じるのならば顧問の役目・役割とは何だと思われますか?


春めくと、身も心もゆるみがち。されど、冬に戻るは「ノー・サンキュー」。

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運命というものをどう考えるかは、人生をどのように生きるかの命題の中に大きな比重を占めている。運命には、私たち人間の浅はかな才知の及ばない、大きな生命の流れ、宇宙を通しての大きな力の働きがあるが、それに私たちがどう関わっていくかによって成否がきまる。

普通、運命を"決まりきった人生の予定されたコース"、つまり「宿命」と同意のものと解釈しているが、運命というのはどこまでもダイナミックで、宿命の様に決して固定的ではなく、不可避ではあるが機械的なものではない。だから、運命というものは本質的に見れば『絶対』のものであり、主体的に見れば『自由』なのである。

また、運命は天のなすものであると共に、また自ら作るものだとしたら、運命はどうにもならないものではなく、私たちの修養によって限りなく変化させることができ、創造し得るものであると考えている。

環境が人を作るということに捕らわれてしまえば、人間には自主性、主体性、自由というものはなくなってしまう。人は環境を作るからこそ存在理由があり、自由や主体性、創造性が生まれるのである。だから、人物が偉大であればあるほど、立派な環境を作るが、人間ができていないと環境に人間が支配されることになる。

私は、自分にまつわる運命は可能な限り変えていくが、もしそれが不可能であれば、進んでその運命を引きうける。どちらの場合でも、精神的に成長できると信じている。運命が人生そのものである以上、苦悩も人生そのものといえる。だから、生きることに意味があるならば、苦悩することにも意味があるといえるのだ。

運命に叩かれ、鍛えられ、苦しむことがなかったら私の人生は形成できなかったことは確かである。私は、青年期に過ごした戦場の体験から、運命をどう受け入れれば良いかを学ぶことができた。必ずやってくる逃れられない死の運命を、進んで受け入れたことによって、すべてから解放された自由と、計り知れない大きな精神的支柱を得られた様に思う。あの辛く悲しい、惨めな思いは二度と味わいたくないが、運命とはそういうもので選択不可能なできごとなのである。

たとえ好ましくない運命でも、運命が不可避なら進んで引き受けるしかないが、むしろ避けたいと思う運命ほど貴重な教訓を秘めているのである。その反対に好ましい運命には、得るものよりも失うものが多いということに、ぜひ気付いて欲しい。自分に降りかかった不運を呪う気持ちを捨て、自分の身に起こるすべての出来事には必ず意味が含まれている、必要だから与えられたのだと受け取れるならば、人間として大きく成長できるだろう。

私は、人生という不思議な過程である運命には、無意味なもの、無価値なものは何一つないのだと強く確信している。挫折も、失敗も、病気も、失恋も、プラスにしようと思えばプラスにすることができる。プラスにするには、自分が自分を教育することであり、どんな環境にあっても、自分を教育する肥しは必ず見つかると考えている。

航海日誌