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今月の航海日誌

航海日誌Vol.197 (2018.08.01)

「父と子」

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

今月のテーマ「父と子」は、父と子の間はどうあるべきか、父親としての役割は何なのかを問うている。父と子の関係如何は、親子の人生に大きく影響するからである。

子を持つ親は誰しも、子供が健康でよい人に育って欲しいと願っている。その思いがどれほど強くても、思い通りにならないのが、父と子の関係ではないだろうか。世に知れた立派な教育者の子弟が、スキャンダルでよく新聞種になるのを見ても、父がなすべき子供の教育ほど難しいことはないとつくづく思う。自身さえ自分の思うようにならないのに、どうして子供を思うように教育できようか。

しかし、どんなに難しかろうと、父親の役割を放棄するわけにはいかず、子供の教育は親の尊い義務であり責任である。また、子供がどう育ったかの帳尻は、全部親に回ってくる。故に、子供を育てるについて、どうしても一本筋の通った考えが必要になってくる。分かったようなことを言ったが、実は恥を申すと、一男二女の末っ子(男子)が中学進学するころまで、子供の教育について考えたことが一度もなかった。

言い訳にもならないが、戦後始めた零細企業の経営に日夜かかり詰めで、家庭を顧みる余裕は片時も無かった。そのようなころ、子供の中学校の校長からPTA会長就任を切に望まれた。子供の教育を一任している手前もあって断りきれず、引き受けた。それが後に予期せぬ好結果を齎(もたら)したのである。校長から、学校教育だけでは駄目で、家庭でしかできない「礼儀・作法」のしつけの重要性を聞き、目からうろこが落ちる思いをした。父としてその役割が果たせていないことに慄然(りつぜん)とさせられた。

そこで、家庭でしかできない「しつけ」教育はいかにすればいいのかを考えた。昔から「子は親の背を見て育つ」と言われ、親の考え方・生き方は、教えなくてもいつの間にか子が真似るようになる。私の家庭における一挙手一投足が、子供への無言の教育になると考えた。最高の安息の場と思っていた家庭は、しつけの道場に変わった。

以来、子供に「こうあってほしい」と思うことを、言葉でなく私の行動で示すことによって気付かせることに努めた。海軍では「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、褒めてやらねば、人は動かじ」という山本五十六 大将の言葉がある。先ずやってみせよ、自分がやれないことは人に強いるな、という教えである。

私が自らの行動で示すことによって、子供たちは自然に真似るようになり、言われなくても自主的に行動する、主体的な人間になってくれると考えた。それまで一度もしたことがない「親子の挨拶」を私から始めた。当初は他人行儀に思えたが、子供は心のどこかで、自分が一個の人格として尊重されたのを感じたに違いない。自然に、相互の挨拶が交わされるようになった。

続いて、子供を丈夫に育てるために、風邪や腹痛などは安易に医者に診てもらわず、できるだけ子供の持つ自然治癒力で治してきた。体温計で何度測ろうと熱は1度も下がらないし、高熱は病原菌を殺す役目をしている。人間の自然治癒力を信じ、子供に必要な免疫力を高めることが真の愛情であると考えた。子供たちは「医者にかからせない、薄情な親か」と恨んだかもしれないが、大人になるまで一度も医者の手にかかったことがない。結果、丈夫に育ってくれたことは、人間の自然治癒力を重視したことに誤りが無かったといえるだろう。

さらに、子供を「質素に育てる」ことであった。ほとんどの家にテレビが普及し始めたころ、子供の勉強を妨げると考え、我が家はテレビを置かなかった。一番遅く、テレビを置いたが、主に見るのはニュースであった。また、受験に備えての家庭教師や塾とは無縁とした。金で差をつけるのは実力の糊塗(こと)に過ぎず、実力をつける妨げになると考えた。大学入試に際しては担任教師から、滑り止めに私学の受験を勧められたが、「浪人することは貴重な人生の勉強になる。金の力で入れたと言われかねない安易な道は選ぶべきではない」と断った。就職の際も「親はノータッチ、自分で選び自力で入れ」と宣言した。子供たちは、我が家だけテレビがないのを卑屈にならず、塾にいけないことも不足に思わず、受験も就職も自らの力でやり抜いてくれた。今では、自力で歩んだ子供たちが、私の誇りになっている。

結局、家庭における子供の教育は、親自身が自らの姿勢を正すことであった。親の背を見て「何かに気付く」までの、気の遠くなるような親の生きざまだといえる。冒頭で父と子の関係如何は親子の人生に大きく影響すると述べたが、子供の教育を通して私自身の人生が大きく変えられた。97歳の今日、「父と子」の間を省みて、自画自賛になるが、完璧とはいえないけれど、「よくやったなあ!」と、自分を褒めてやりたい。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2018年6月)より』

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