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Vol.244 「伝承する」

2022/08/01

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

「伝承する」とは、伝え繋ぐという意味である。それは古来、多くの先哲が行ってきたことである。私たちも社会を構成する一員であるとともに、子を持つ親として、育まれた自らの人間観・社会観・良風美俗を伝え繋ぐ義務と責任がある。私には、波乱に満ちた100年余の人生経験があり、伝承すべき課題は多い。

その中でも、私が伝えたいのは「死の捉え方」である。多くの人は死を恐怖と捉えている。死を直視せずしてどうして幸せな人生が得られようか。私には、死線を超えた体験が数知れずある。その都度、死と向き合い自分のものにして日々を生きてきた。どうしてそうなったかを述べてみる。

それは、私が戦場に向かった22歳の時、死は当然だと覚悟したことに始まる。着いた戦場ラバウルは、毎日100機を超す戦獏連合の空襲があり、一日中、何度も自分の死と向き合うことになった。死は特別なことではなく日常茶飯事だった。慣れというのは恐ろしい。死は当然であって、死なずにいるのが不自然だと思うようになっていった。当時戦況は日増しに悪化しており、自分の死がそう遠くないのが一兵士の私にも予想できた。毎日「今日は無事だったが、明日は俺の番かもわからんぞ」と自分に言い聞かせて眠るのだった。

疲れ果てて眠りに落ちていた深夜、心の奥から「びくびくせずに潔く死ね」という声が聞こえてきた。思わず「そうだ!死は恐るべきことではない、祖国や家族の平安に資する崇高な行為で、自分を最高に活かす道である。男子の本懐これに過ぐるものはなし」と悟った。途端に気後れすることなく死を受け容れた。するとたちまち心が晴れ渡り、すがすがしい気持ちになったのを今も鮮明に覚えている。

しかし、なぜ躊躇なく自分の死を受容できたのかが不思議でならなかった。心でどれほど考えようと、すんなりと死を受け容れられるはずがない。何か大きな力が働いたからに違いない。それは、魂ではないかと直感した。魂の存在に目覚めた瞬間であった。同時に、魂が偉大な力を持つのは、宇宙の生成発展の意志を帯びているからだと気付いた。ゆえに、魂は私の所有ではなく、魂こそが私の存在であると悟った。

戦後になって、私の魂についての認識が、独りよがりの幻想ではないことを証明してくれた先哲がいた。一人目は、ロシアの文豪レフ・ニコラエヴィチ・トルストイである。その書『人生の道』に「魂は肉体に宿り、心と身体を統御・支配する」と断言している。魂が主人で心は魂の働きを具体化する従者・道具だという。

二人目は、ギリシャの哲人ソクラテスである。高弟のプラトンの書『ソクラテスの弁明』の中に、彼は紀元前450年頃「徳を高め、魂を養え」とアテネ市中を説いて回った、と述べている。それは日本の縄文時代、竪穴式住居で食べることしか考えなかった頃で、徳や魂について語ったのは彼が世界で最初の人だった。

三人目の哲人は、オーストリアの精神心理学者ヴィクトール・エミール・フランクルである。彼は第一次大戦中、ユダヤ人のためドイツ・ナチスに捉えられ、アウシュヴィッツ収容所に送られ、妻はガス室で殺された。収容所の中で、囚人の不思議な光景を目撃した。毎日、呼ばれた者がガス室に送られるので戦々恐々としている中、ある囚人は高らかに国歌を歌いながら従容としてガス室に入って行った。ある囚人は支給された僅かな黒パンを病人の枕元にそっと置いて作業に出ていった。さらに、若者の身代わりを買って出てガス室に入っていく老人もいた。

戦後彼は、収容所内で目撃した囚人たちの崇高な行為は、人間のどこから出ているかを追求し、著書『夜と霧』を発表した。たちまち世界中に広まりベストセラーになった。その崇高な精神は「超越的無意識であり、東洋でいう魂である」と記されている。これら三哲人の書によって、私の魂に対する認識は幻想ではなく、正しかったことが裏付けられた。

私のしいする死は、魂の容器・肉体の死であって、魂は霊魂と名付けられて永遠に生き続け、宇宙の意志によって再びこの世に生を与えられる。ゆえに、死は恐れ悼むことではなく、歓迎すべきことであると考える。死線を超えた体験から魂の存在を悟った人生は、不撓不屈の精神をつくり、一挙手一投足となって今日の私をつくってくれたといえる。死を直視して「魂に目覚めて生きよ」が、最も私の伝承したいことである。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2022年6月)より』

 

 

「魂」

 

魂については、これまで語録の中で断片的に述べてきたが、いずれも私自身が満足できる内容ではなかった。なぜなら、そもそも魂は理性で知ることができないもので、言葉で説明するには無理がある。まして素養がない私には容易なことではない。

しかし、いかに難しかろうと魂の存在を述べずにはいられない。誰もが納得できるように、分かり易く語り続ける必要がある。青年期に目覚めた魂の存在によって、私の悔いのない自負する人生がつくられたからである。100歳を超えた今もなお、かくしゃくとして人生を謳歌しており、いかに魂の影響が大きいかを知ることができる。

魂という言葉は誰もがよく耳にしているし、多くの書にも散見される。魂を冷やす、魂を入れ替える、大和魂などの言葉を通じて暗黙の裡に魂の存在を知っている。しかし、魂とはどういうものかを明確に知る人は少ない。なぜなら、魂は理性で知ることができないだけでなく、もともと天来のものであるからだ。

私の僅かな体験からみても、魂の存在を知る一番の近道は、自分自身を深く見つめて気付くことだといえる。それは理性によって知るのではなく、直観でその存在に気付くのである。私は、死を目前にした時が自分を見つめる最大の機会だった。魂の存在に気付いたのは、正にその時だった。しかし、死の直前に魂の存在に気付いても、その素晴らしさのもとに生きる時間がないのではもったいない。

魂に目覚める機会は他にもある。例えば、取り返しのつかない失敗をして挫折感に落ち込んでいる時、何もかも行き詰って前途を絶望し瀬戸際に立つ時などが、真剣に自分を見つめる絶好の機会となる。

自分を見つめるとは、自分を見るもう一人の存在があることを意味する。それが魂の働きであり、自分をとがめることができる良心でもある。「魂とは、肉体に宿り、心と身体を支配し、統御する」ともいわれる。心と身体、すなわち命を自分の思うように統御できるのが魂である。かつて戦地で自分に死が迫った時、潔く一命を捨てる決意をさせた魂の偉大な力を認めずにはいられない。しかし、なにゆえ魂にそのような力があるのか。

私たちの命は、他の動物・植物と同様に、大自然の摂理・宇宙の意志(神・大いなるものともいう)によって、この世に生を与えられた生き物の一つである。従って、命に含まれている魂は宇宙の持つ生成発展の意志を帯び、命を捨てさせるほどの力を持っている。同時に、私たちの良心となり、自然治癒力となって身体を護ってくれている。身の危険を予知し、ひらめきや直感を鋭くし、天啓を聞き取り、すぐ勘やコツを覚えられるなどは、理性・心ではなく魂の働きである。私の考える魂の一端をお伝えできれば幸いである。

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