Vol.297 「拓く進む」

1月のテーマは、「拓く進む」である。これは、私の信条である「創造」と意味が共通している。何れも、自分の人生は自分がつくるという意味を含んでいる。

ところで私事なのだが、私は去る12月3日、主治医の木村医師の指示により、救急車で中央病院へ搬送され緊急入院した。

「まずいことになったな」と思った。普通、100歳を超えた老人が救急車で入院すれば、1週間か10日の内に、あの世に逝くと相場が決まっているからだ。故に私はこれも運命だと観念したが、なぜそんな早合点をしたのだろうか。

入院してから種々検査をして12日後に、無事に退院することができた。これは近藤・西本両医師の巧みな医療努力のお陰である。お二人と医療スタッフへの感謝の気持ちを込めて、ここに記したい。しかし、なぜそんなにすらすらいったのだろうか。

振り返って見ると、80余年前の日米戦争で、私は海軍の航空機整備兵として3年間、南の戦場、ラバウル・サイパン・ペリリュー島・フイリピンの4戦場を転戦してきた兵の一人である。

その間、毎日のように死線を往来したが、幸いにも死なずに済んだ。雨と降る銃弾を潜り抜けていく度に、不謹慎だが1種のスリルさえ感じていた。だが、何時も銃弾に当たっての死は当然だと思っていた。その頃「21、2歳」既に度胸が据わっていたのである。年に似合わぬ度胸の良さを我ながら頼もしく思っていた。

いつ死んでもよいと言えるほど強い力は他にない。少しもひるまず戦い続けた。が、日米間の物量の大差で、日本は敗戦国となった。しかし、悔いはなかった。それどころか、戦後僅か20余年で日本は、西ドイツを抜き、米国に次ぐ世界第二の経済大国になったのである。以て瞑すべしである。

我が社の始まりは、戦後父と私と弟の3人で、焼け跡に建てた24坪の小規模な機械修理工場である。それ以来、社是を「創造・奉仕・協力」とし、歩んできている。

その後、開戦当初にウエーキ島で油圧機械を見た事を思い出し、油圧を利用した荷役機械をつくろうと志した。寝食を忘れて取り組み、日本初の油圧クレーンを完成させることができたのである。

現在、我が社の油圧クレーンは、生産の6割強を輸出し、輸出先のトップが米国であり、年々需要が増えている。戦争では負けたが、その国へ我が社の製品を納めている。規模は違うが、トヨタのように、米国を圧倒しているのである。この事実は、私の最大の誇りであり、陰ながら密かに溜飲を下げている。

昨年度、我が社は3,000億円を超える生産量、従業員総数4,916人という規模になった。これは今月のテーマ、「拓く進む」即ち創造し続けたことによって成し得たことを示している。会社創立当初、我が社の社是の真っ先に「創造」を掲げたのは先見の明があったと自画自賛している。やはり私は運の良い男だった。宇宙の意志を帯びた魂主導の生き方に感謝して尽きない。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2026年1月)より』