Vol.296 「涙を流す」

12月号の表題は「涙を流す」である。私がこれまでどのようなことで涙したかを振り返って見よう。子供の頃から、「涙を我慢するのが男なんだ」と言われて、育ってきた。だから、男は人前で涙を見せるのは恥だと思っていた。その所為か、感情をそのまま顔に出すことを控えるようになっていた。だが、人知れず涙したことが3度あった。一つは悔し涙、他の二つは歓喜の涙である。

その悔し涙とは、かつて日本には、2ないし3年の兵役義務があった。それが1年で済む海軍の新制度に惹かれて志願、昭和14年10月、横須賀海軍航空隊に第一期生として入隊した。厳しく鍛えられるのは承知していたが、入隊翌日から始まった分刻みの訓練は、聞きしに勝る厳しさであった。僅か1年で下級幹部を養成するのだから、体罰と鉄拳制裁で鍛えるのは当然だと思った。

訓練担当の教員から1日中、「気合が入ってない」、「動作が鈍い」、「娑婆っ気が抜けてない」等と叱咤され、その度に鉄拳の制裁が降ってきた。私は、体力・気力共に先頭を占めていたが、鉄拳制裁は全員に下された。私はその不公平な扱いに我慢できなかった。自分の落ち度でなら当然だが、連帯責任という十把一からげの制裁は、どう考えても納得できず、情ない悔しい思いが残った。

毎夜ハンモックに入ると、その悔しさが思い出され、情けなさと不甲斐なさに、涙がこみあげてきたが、涙は枯れるのだろうか。何日か経った頃、ふと、この情けない状態を、1年間続けてもいいのかという反省が生まれた。少々殴られたぐらいで泣くようで、強い軍人になれるか。もっとしっかりしろという気持ちが湧いてきた。軍隊というところは、命令に服従の問答無用の世界なのだ。自分がそこの住人なのに気が付いた。

悔しい情けない、という涙を思いきり流したことで、拘りが吹っ切れた。すっきりした気持ちに転換できたのである。「よぅーし、これからは、如何なる過酷な制裁を受けようとも、決して涙を流すまい。むしろ進んで制裁を受けてやるという積極姿勢に考えが一変した。

それ以来、いくら制裁を受けようとも「蛙の面に水」で、私の心は揺らぐことは無かった。僅か1年間だったが、私を不撓不屈の、逞しい精神と肉体の持ち主に育て上げてくれたのである。それは何よりも大きい、精神的財産になっている。今でもあのとき、よくぞ殴って鍛えてくれたと感謝している。現在の長寿も、その所為でつくられたといえるからだ。

次に、嬉し涙を記さねばならないが、また戦争中の話なのを容赦願う。昭和19年3月、私はサイパン島基地にいた。作戦のため、我が201航空隊はペリリュー島に移動することが決まった。

2か月前、私達隊員がラバウルからサイパンに向かった貨物船が、2隻共撃沈され、乗っていた私も舷側から飛び込み、4・5時間、太平洋で泳がされた。しかし今回は、その轍を踏まないように、空母千代田が回送されてきた。おそらく、40ノット近い快速だったのだろう、1夜でペリリュー島に着いた。

それを待っていたかのように、3月30・31日、米58機動部隊に包囲・急襲された。我が戦闘機隊は勇躍・邀撃に向かった。だが、グアム・サイパンから応援に来た52機と共に、南冥の露と消えた。基地隊員を含め戦死246名を数えた。

31日の夕、総員集合が令され、中野司令が壇上から、2日間の戦闘でこの島は抵抗力を失った。米軍が上陸して来る公算大である。これに対し我が隊は、最後の1兵まで戦うと宣言された。「いよいよ最後の時がきたな」と、身の引き締まるのを覚えた。

私達は航空爆弾を砂中に埋め、上陸が予想される海辺に伏して、敵前上陸に備えた。良い死に場所ができた、これまで何度も生かされてきたが、もう年貢を納めてもいい頃だと思った。夜明けの頃が上陸の時期だ。全員息を殺し、固唾を呑んで、水平線を見つめていたが、米軍は上陸してこなかった。もうこの島は何時でも上陸占領できるので、去っていったのだと思った。

平穏になった2・3日後、突然上司に呼ばれた。日本に行き、製造会社からゼロ戦を受領し、セブ島に空輸せよという命令であった。夢かと思った。早速、隣のパラオ基地にいた2式大艇に乗り、日本に向けて飛んだ。7・8時間経た頃、「日本に着いたぞー」の声に、下を見下ろすと、機は房総半島西岸を北上している。

よく見ると、なんと岸辺に桜の花が咲いているではないか。それを見た途端に、どっと涙が溢れてきた。嬉し涙がとめどなく流れた。二度と生きて見ることができないと思っていた祖国日本を眼下にして、感動に打ち震えた。中島飛行機製作所でゼロ戦を数十機受け取り、私は1式陸攻機で先導して、沖縄・台湾経由セブ島に無事戦闘機空輸の大任を果たした。

もう一つは、65年程前の話である。親子3人で小企業を始めたが、応募して来た人を逐次加え従業員が数十人になっていた。私は若かったが、その経営を任された。学識・技術・経験もない、海軍で身に着けた、「率先垂範・指揮官先頭」の教えだけでその重責に耐えられるかと思った。

今からでも遅くない、もっと自分を伸ばし、経営者に相応しい人間に自分を仕立ててみようと決めた。丁度その頃、関西経営者協会主催の経営セミナーに参加した。日程に、2泊3日の京都一燈園の研修が組まれていた。それが後の私に大きな転機を与えてくれた。

2泊3日の起居は禅寺の修行と似ていたが、私は海軍で鍛えられていたので、苦痛は少しも感じなかった。日程の内1日は便所掃除の修行だった。雑巾とタワシを入れたバケツを下げて山科の街へ行き、一軒一軒訪問して便所掃除をさせて貰うことが、プログラムに組まれていた。

便所掃除ぐらいわけはないと、高をくくって出掛けていった。街中の家の前に立ち、「ごめん下さい。一灯園から来た者で、修行のためにお宅の便所掃除させてください」と、お願いして回った。ほとんどの家が「うちは水洗で奇麗です、もう掃除は終わり結構です」と、どの家からも断られた。

そのうち、自分が街中をうろつく浮浪者ではないか、何のために便所掃除をしなければならないのか、知らぬ顔して帰っても分からないではないか、という考えが頭をかすめた。だが、「いや待てよ。人を騙せても、自分は騙せない」。

また、「こんなことさえ満足にできずに、一人前の人間と言えるか」という考えが出てきた。自分の年齢や地位・財産等を取っ払った真っ裸の人間が、どれだけ世間に通用するかを試す絶好の機会だと思った。

「よーしっ、こうなったら、石にかじりついても、土下座してでもやらせて貰おう」と心に決めた。もし出来なければ、どの顔さげて家に帰れようかと思った。考えてみると、一面識もない中年の男を家に招じ入れて、便所を見せるのは、よほどのことでない限り、断るのが当然である。だが、今回断られたのは、私の真剣さが欠けていたことに気づかされた。

今度こそはと意気込んで、街外れの一軒家で真剣に頼んでみた。出てきた老婦人が、さも迷惑そうに「うちの便所は汚いですよ。それで良かったらやって下さい」という。私は「ありがとう」の感謝と共に、思わず老婦人を拝んでいた。その家は農家のようで、便所が表にあった。のぞいて見ると、彼女の言った通りひどい汚れだった。

これは掃除のやり甲斐があるわいと、こびり付いた糞を掻き落としていた。もう汚いも臭いも気にならず、無心になって手が動いていた。その時思わず涙がどっと込み上てきた。やっと一人前になれた。もうどんな嫌なことも進んでやれる自信ができた満足の涙だった。同時に、もう何時でも、どこででも、便所掃除ができる自分を誇らしく思った。

これまで自分がいかに傲慢で、了見の狭い人間だったかを知らされた。この体験から得た収穫は、海軍入隊時の殴って鍛えられた訓練同様、大きな精神的財産になっている。最近つくづく、俺は運のよい男だと思っている。

それは宇宙の意志によるのだが、その半分は、私がつくったのだと自負している。105歳の長寿と健康がそれを示している。嘗ての日米戦争で戦った数十万人の将兵の中で、生き残っているのは私一人になっている。なんという幸せ者かと。宇宙の意志、天恩に感謝して止まない。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2025年12月)より』