Vol.298 「先達に学ぶ」

今月の表題「先達に学ぶ」に際して、私の先達ともいえる株式会社タダノの創立者である父、多田野益雄について書いてみたい。
父は明治生まれ、6人兄妹の長男で、独立心が旺盛だった。早くから、手に職を持つ必要を感じていたようだ。5年制の商業学校を2年で中退し、市内の町工場の見習工になった。そこで、当時最新の金属加工法である、ガス・電気を使った溶接技術を習得した。その技術だけを持って単身北海道に向かった。当時北海道は、政府の巨大な開拓計画の実現で活気を呈していた。
最初、室蘭製鉄所に勤務し、郷里香川の農家の長女と結婚した。私が生まれ、5歳頃まで室蘭に住んだ。近所に子供がいなかったので、私はいつも一人で遊んでいたという。だが私は少しも寂しいと思わなかった。それが、私の独立心や孤独な性格を作ったのかもしれない。父は私の教育を考え、香川に居を移したが、そこでも一人で遊んでいたようだ。
私が字を読めるようになった頃、父が絵入りのグリム童話集・アンデルセン童話集を買ってきて、そばにそっと置いていった。私は飛びついて、何度もくり替えし読み返した。小学校に入って、皆より物知りなのが分かり、鼻を高くしたのを今も憶えている。
そんなことから、父の暖かい慈愛を感じていた。父は寡黙だったが威厳があった。「…せよ、…するな」という、𠮟正の言葉を聞いたことは一度もなかった。だから、父の些細な言葉も注意して聞くようになっていた。手先が器用だった父は、私の為に子供用の自転車を作ってくれた。その頃日本では、子供用の自転車を作っていなかった。父は、大人用の車体から、子供用に使える部分を抜き出し、切り取り継ぎ足すなどをくりかえし、車輪は小さいのを利用した。出来上がって始めて乗ってみたが、父の指導ですぐに覚えた。私の得意・嬉しさは、推して知るべしだった。
自由に乗れるようになった頃、父に勧められて、母の実家へ、自転車で訪問した。距離は数キロである。通過する長尾街道は交通量が少なく安全だったが、途中の長い坂越えが気になった。けれども難なく超えられた。到着するや、「まあーこんな小さな子供が」と、大騒ぎになった。私の嬉しさは言葉にならなかった。
小学校卒業前に父から、大阪の西野田職工学校に行くよう言われた。だが、職工という名前が気になってすぐ返事ができなかった。しかし、この父の提案には、私の将来に、遠大な期待を寄せているのをなんとなく感じ聞いてみると、大阪府立で、競争率8倍強の有名校である。地元の級友たちに胸を張って報告できると思い、入学を決めた。
この入学が私の戦後の生涯を素晴らしいものにしてくれた。職工学校で学んだ不完全な機械技術ではあったが、油圧クレーンに着目したことが幸いした。今では、生産3000億円で、その6割強を輸出する世界的企業になっている。その素になる油圧クレーンとの奇縁は、前号に記したので省く。
私の100年余の生涯を振り返ってみてつくづく思うのは、自分の一生は自分がつくる、父から学んだ独立自尊の信条であった。良い運に次々と恵まれたのも、その信条の生き方をしてきたからだと思う。良い運を配慮してくれた宇宙に、「ありがとう」と申し上げて、感謝の言葉にしたい。
『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2026年2月)より』