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Vol.249 「運 鈍 根」

2023/01/06

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

 運・鈍・根の運とは、巡り合わせとか予想外の吉凶禍福の出来事をいい、鈍とは、粘り強く続けて止まないこと、根とは、根気と根性の気力をいう。これをどう考えるかは、私たちの人生を通した命題の中で大きな比重を占めている。ゆえに、運・鈍・根の3つが人生に大きく関わっているのは、皆十分わきまえていることである。しかし運は、自ら与り知らぬ天命のようなものだが、鈍と根は自分がつくり出すものという違いがある。

普通は、運命を「決まりきった人生の予定コース」で、動かすことができないもののように解釈しているが、宿命のように固定的ではなくて可変的である。つまり、運命をどう受け止めるか、その受け止め方と対処の仕方によって、どのようにでも変えられる。運命は天の配剤であるとともに、自らつくるものと考えるなら、運命はどうにもならないものではなく、私たちの修養によって変化させ創造し得るものといえる。

誰でも不幸や災難に遭えば「どうして私だけがこんな酷い目に逢わなければならないのか」と運命を呪うだろうが、それは間違っている。病気になる、盗難に遭う、怪我をするなどのすべては、あらかじめ私たちの生活の中に織り込まれていて、それなしには生きることはできないのではないか。ならば、それを嘆くよりも、平然と受け入れ冷静に対処した方がどれほど賢明かしれない。

運命はその素材を与えるだけで、それを私たちの責任においてプラスにもマイナスにもできる。運命より強いのは人間の精神である。何かが起こった時の私たちの対応の仕方を全く違ったものにするからだ。いいことばかり起こるものではないと、運命の全てを肯定することである。それは無力の諦めでも、戦いの放棄でもない。苦しくとも、それは丁度自分にとって必要だったことのように受け容れるのである。

運命には指一本逆らえないと思ってしまえば、人間は運命に操られるロボットと化し、人間の自主性や主体性、自由をなくしてしまう。人間は運命を創るからこそ存在理由があり、そこから自由や主体性、創造性が生まれる。

私の人生は、運命に叩かれ、鍛えられ、苦しむことがなかったら形成できなかった。青年期の3年間に過ごした過酷な戦場の体験から、運命をどう受け容れればよいかを学ぶことができた。必ずやってくる逃れられない死の運命を進んで受け容れた瞬間、解放された自由と、計り知れない大きな精神的支柱を得られたように思う。勇気を100倍にしたのである。あの辛く悲しい惨めな思いは二度と味わいたくないが、運命とはそういう選択不可能な出来事なのである。

不思議にも、好ましくない、避けたいと思う運命ほど貴重な教訓を含んでいる。反対に好ましいと思う運命には、得るよりも失うものが多いことに注意が必要だ。自分に降りかかった不運を呪う気持ちを捨て、我が身に起こるすべての出来事には必ず意味が含まれており、自分に必要だから与えられたのだと受取るならば、人間として大きく成長できるのではないか。

私は、人生には無意味なもの、無価値なものは何一つないと確信している。挫折も失敗も、病気も失恋も、プラスにできるからだ。それには、どんな運命に遭おうとも、自分を教育する種は必ず見つかるのだと考えることである。運命は予測できず、たとえ幸運であっても有頂天にならず、不運にあっても悲しむことはない。「人間万事塞翁が馬」の例えのように、幸運の裏に災いの種が潜んでいるし、不運と思われる中にも幸運の種が隠されている。

フランスの哲学者アンリ=ルイ・ベルクソンは「人間というものは、自分の運命は自分でつくっていけるものだということを、なかなか悟らないものである」と述べており、哲学者、西田幾多郎も「環境(運命)によって人間は変えられるが、人間は環境(運命)をつくることができる」と述べている。もし私たちが、どんな過酷な運命も引き受ける気になるならば、私が死の運命を受け容れた時に勇気が湧いたように、やり遂げる勇気が湧いてきて、鈍と根を創り出すのは間違いない。かくして、運・鈍・根は私たちの人生を悔いないものにせずにはいない。

最近、死が迫りつつある私は、励ましの言葉を聞いた。エリザベス・キューブラー=ロス著『死、それは成長の最終段階」の一節に「死についての一般的な概念からは、成長する見込みは含まれていないが、死を違った視点から見れば、人間を成長に導くのは、人生のいかなる他の力よりも、死が迫りつつあることと、死までの過程を経験することである。不思議に思われるかもしれないが、成長するための最も有効な方法は、死を研究し、死を体験すること」とある。

またこのようにも述べている。「戦争中、多くの死の悲劇に巻き込まれた人々は、その時の情景や感情を決して忘れまい。その辛い経験を通して、他の手段でほとんど得られない成長と人間性を獲得している」とある。これはまさに、私が体験を通して得た考えであり、言いたいことを見事に表してくれている。102歳の今が私の人間的成長の最高の機会であるのを知り、大いに意を強くしている。粘り強く気力をもってさらに成長したい。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2022年11月)より』

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