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Vol.250 「ほんとうの自分」

2023/02/01

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

哲人ソクラテスの言に「汝自身を知れ」とある。ほんとうの自分を知れという意味であるが、人間として最も知らなければならないことでありながら、少しも分かっていないのが自分自身である。普通、私たちは自分のことを私、自分、僕、俺、己などと言っているが、それらの言葉は一体、自分のどこを指しているのだろうか。

「私」と称している人間の心の中に、二人の私がいるようである。それは、これまで人間は精神と肉体の結合であり、理性と本能の結合だという見方をしてきた。その結果、一人の人間の中に理性としての私と本能としての私とがいて、理性によって本能を統御し支配しているのだと思っていた。ところが、本来「私」は一人であるはずなのに意識の上では、理性としての私と本能としての私という、二人の私をつくっているのである。どちらもほんとうの自分ではあり得ない。

では、自分の本体は心かと思うだろうが、心は生れてから自分が作ったもので、コロコロ変わる。心の大部分を占めている理性も、2、3歳頃から言葉を覚え、言葉を事実に結び付けていく作業を通じて、考える能力を身につけ自分がつくり上げたものである。だから、心も理性も合理的にしか考えられない不完全なものなので「私」の本体であるはずがない。

すると、この身体・肉体が自分を表していると思うだろうが、肉体を構成する60兆個の細胞は、6カ月から3年の間に全部生まれ変わっている。ゆえに、身体は3年毎に別人になっているので本当の自分とは言えない。心も身体も自分の本体でないとすれば、ほんとうの自分は何なのか。

かつて、もしかすると自分の本体は魂ではないかと思った経験が私にある。その一つは、昭和18年末、南方の最前線ラバウルでの出来事である。彼我の戦力の差が日増しに大きくなっており、このまま推移するなら、そう遠くない内に自分の死が免れないことを下級兵士の私にも感じられた。ある夜、疲れて眠っていたが、心の奥から「びくびくせずに潔く死ね」という声が聞こえてきた。魂の叱声だった。ハッとして「そうだ!自分の死は祖国に捧げた崇高な行為であり、男子の本懐だ」と思うと、躊躇することなく死を受け容れることができた。それ以来不思議にも、飛び交う弾雨の中を平気で動き回れるようになった。

さらに魂の存在を見たのは、最後の戦場フィリピンである。昭和19年10月、我が軍は窮余の一策として、ゼロ戦に爆弾を抱かせ、敵艦に突っ込むという比類ない特別攻撃隊の編成が決まった。その第一回に、我が201航空隊が選ばれた。出撃の日「総員見送りの位置に付け」が令され、第一航空艦隊司令長官・大西瀧治郎中将と水杯を交わした特攻隊員の出撃を厳粛な気持ちで見送った。意外にも、目の前を過ぎゆく彼らの顔は晴れ晴れとしており、しかも凛として輝いて見えた。もうこれは人間業ではない、神の化身かと見紛うほど神々しく感じられた。彼らも私と同じ、死を受け容れたからだと思うと、震えるような感動を覚えた。私も続いてフィリピンの土になろうと心に誓った。

二度の強烈な体験から、自分が魂の存在であることを知ったが、私の推測であり、早合点かもしれぬと思っていた。ところが、魂こそがほんとうの自分なのを証明した哲人がいた。その一人、精神医学者ヴィクトール・エミール・フランクルの書『夜と霧』が魂の存在に触れている。彼はナチスのユダヤ人狩りによって、アウシュヴィッツの捕虜収容所に入れられ、夫人はガス室で殺されるが、彼自身は幸運にも虐殺を免れた。彼は収容所の中で、人間が限界ぎりぎりのところに置かれたとき、人間がいかに行動するものかをまざまざと見た。囚人たちは、収容所の役人に追い立てられて仕方なくガス室に死に逝くのが普通であった。

しかし、中には敢然と国歌を歌いながら死に赴いた者がいるし、祈りを唱えつつ従容として死についた者もいる。若者の身代わりになってガス室に入っていった老人もいた。また、たださえ足りない自分のパンを病人の枕元にそっと残して作業に出ていく者もいた。彼はこれらを見て、こういう尊い意識は人間のどこに宿っているのだろうかと考えた。理性や本能の衝動的無意識であるはずがない、その層の下にある超越的無意識がそうさせたのだと考えるに至った。私たちが昔から呼び習わしている「魂」のことを言っている。

もう一人の哲人は、ロシアの文豪レフ・ニコラエヴィチ・トルストイである。彼の書『人生の道』に「魂は肉体に宿り、心と身体を統御し支配する」と断言している。ことわざにも「心の主となれ、心を主とする勿れ」がある。人間にとって、魂が主人で、心は魂の具体化に必要な手段・道具の従者だという。

戦後、二人の先哲の書から、私自身が魂の存在であるという考えがゆるぎないものとなった。私の価値観・世界観は一変し、人生をつくる原動力となっている。自分をコントロールできる克己の快感は、何にも代え難い勝利の喜びとなり、私の可能性追及の牽引力となって次々と困難を克服していった。「ほんとうの自分」を知ったことが、今日の102歳の私をつくったといえる。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2022年12月)より』

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