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Vol.251 「遂げずばやまじ」

2023/03/02

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

今回のテーマは、自分が決めた目標を達成するまではやめない、不撓不屈の精神をいう。まさに、戦後の私の人生を象徴しているといってもよいだろう。口幅ったいことを言うようだが、私には「遂げずばやまじ」の精神がつくられた体験が三度ある。一度目は、一年間の海軍における基礎教育訓練である。二度目は、南方の戦場において魂の存在を知ったこと、三度目は、戦後にその精神をいかに開花させたかである。

最初の体験は、昭和14年10月、徴兵適齢前に海軍へ志願入隊したことである。当時日本には徴兵制度があり、陸軍では2年、海軍では3年の兵役義務があった。海軍に1年の志願制度が制定され、3年の徴兵義務に該当するというのに魅かれて、私はその第一期生として横須賀海軍航空隊へ入隊した。世間では「誰もが嫌がる軍隊へ、志願する馬鹿がいる」と、陰で囁かれていた。

入隊前に、海軍は「殴って教える所だ」と耳にしていたが、想定以上の凄さだった。普通3年かかる兵役を1年で済ますのだから、その激しさに文句を言える筋合いではない。分刻みの訓練科目に、全力を振り絞って立ち向かう毎日だった。しかし、教官からは「動作が鈍い!気合が入っていない!娑婆っ気が抜けていない!」などと叱咤され、その度に鉄拳の制裁を頂戴した。そのような毎日で1年間鍛えられた。制裁の理由はいくらもつくれるが、受ける側は堪ったものではないと思ったのは錯覚だった。一年後の私は、自分でも見違えるほどの逞しい若者に成長し、いかなる艱難辛苦にも耐えられる不撓不屈の自信がついていたのである。僅か1年だったが、三食付きで、しかも無料で、力を込めて殴って鍛えてくれた海軍の恩は、終生忘れることはない。

二度目の体験は、訓練を終えてすぐ応召、茨城県矢田部航空隊に入隊したことである。2カ月後に日米戦争が勃発し、南方で戦いが始まった。私は、内地の部隊でのうのうと過ごすのに我慢できず、前線への派遣を上司に申し出た。隊内では私一人だった。積極的な父の血が私にも流れていたのだ。最初に赴任したのは、日本の委任統治領で米国に最も近い、マーシャル群島ルオット基地だった。だが大した戦闘がなく、半年後、最前線ラバウル基地に移動した。

平穏だったルオット島とは様変わりだった。毎日、100機に余る戦爆連合の来襲があり、待機していた我が戦闘機200余機が一斉に迎撃に飛び立ち撃退していた。しかしその度に、我が方にも人員機材の損耗が少なからずあった。だが、その補充が思わしくないに比し、米軍はむしろ日増しに戦力を増強していた。その差が大きくなり、戦況は次第に不利な状況になっていった。

戦闘中、私たち地上員は機を出発させた後、滑走路の脇につくった土盛りの防空壕に避難するのだが、B24爆撃機が落とす1屯爆弾には、跡形なく吹き飛ばされていた。壕内で爆弾投下の地響きが近づいてくるのだが、運を天に任すしかなかった。その内、このまま不利な戦況が推移するなら、そう遠くない日に私達の死は免れないと、一兵士の私にも予想された。疲れ果てて眠ったある深夜、心の奥から「びくびくせずに、潔く死ね!」という声が聞こえてきた。ハッとして「そうだっ!私の死は命を国に捧げる崇高な行為だ」と思うと、呆気ないほど、簡単に死を受け容れられた。

以来、心は軽く爽やかになり、我ながら驚くほど、平気で弾雨の中を動き回れるようになった。この行動の変容は、心や理性でつくれるはずがない、何か大きな力が働いたに違いない。それは魂ではではないかと直感した。私が魂に目覚めた瞬間だった。

三度目の体験は、戦後になって、戦時中に培った魂についての認識が自分の錯覚ではなかったことを知った。ギリシャの哲学者ソクラテス、オーストリアの精神心理学者ヴィクトール・エミール・フランクル、ロシアの文豪レフ・ニコラエヴィチ・トルストイの三人の先哲の書に「魂は肉体に宿り、心と身体を統御し支配する」と異口同音に述べられており、私の認識が間違いなかったことを知った。以来、魂の力が戦後の私の運命をつくっていった。

魂を主人とし、心と理性を従者とした行動様式が私につくられた。言い換えると克己の生き方である。自分を思うように動かせる喜びは、さらにその生き方を「遂げずばやまじ」と促進せずにはいなかった。誰もがやれない、元日の海での寒中水泳を49年間、93歳まで続けられ、このエッセイを79歳から今日まで23年間、毎月発行できたことも、克己のなせる業と言ってよいだろう。

運命は、予想できない出来事を懲りずに私たちにもたらすが、それを一旦受け入れる。そして、その対処の仕方によって、いかようにも変えることができるのである。3年間に4つの戦場を戦い抜いてこられたのも、自分の運命はすべて「遂げずばやまじ」と自分自身がつくってきたといえる。何はともあれ、102歳の今日、「生きている」ことを有り難いと思える私は、何という幸せ者かと思う。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2023年1月)より』

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