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Vol.253 「一心万変に応ず」

2023/05/08

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

表題は、安岡正篤がその著『経世の書「呂氏春秋」を読む』の中に記されている言葉で、自分の心さえ養い定めていれば、人生のどのような変化にも処していけるという。言い換えれば、自分の心の在り方いかんを問うている。だが、私たちの心は、身体と同じく生来備っているものと考えており、心の指示に従って動いている。このことに奇異を感じる人はいない。心がどうしてつくられたかを知れば、いかに不確実、不安定なものかが分かるだろう。

下西風澄は『生成と消滅の精神史』に「心という、よく分からないものがある。手に取ることもできないし、見ることもかなわない。あるのかないのかも、実は分からない。だから多くの人が、色々な角度から議論してきた。中世を経てカントにいたって、心という捉えどころのないものが、しっかりと対象化できたかのように思われた。心の問題が、解決されたかに見えたのだ。しかし、心は、そんなにやわな相手ではない」と記している。

また、芳村思風はその著に「心というものは、生まれた時にはなかった。2、3歳頃から言葉を覚え、その言葉と言葉を組み合わせて考えるようになり、その積み重ねによって理性がつくられた。私たちの心には、その理性が大部分を占めている。つまり、心は自分が作り出したものである。理性がでてくるためには言葉を覚えなければならない。その言葉も人間が作ったもので、合理的にしか通用しない。したがって、理性は言葉の持つ不完全性を免れない。故に、心を金貨玉条と考えてはならない」と述べている。ことわざに「心を主とする勿れ、心の主となれ」ともある。

人間にとって大事なことは理性でつくるのではなく、すべて感じることである。たとえば、幸福・愛と信頼・生き甲斐・勇気・責任などは、合理的ではなく、感じることによってしか知ることができない。卑近な例を言えば、豪邸に住み、主人は大会社の社長、息子は東大在学中、何不自由ない暮らしなのに、妻が「私は何て不幸せなんだろう」と嘆じていれば幸福ではありえない。それに比し、六畳一間に親子三人つつましく暮していても「私は何て幸せなんだろう」と歎じるならば幸福である。

私が、今の自分をどう感じているかを述べたい。はばかりながら、現在、私の人生で一番、生きていることに幸せを感じている。それ以外何もいらぬという、心の豊かさと平穏である。なぜなら、青年期に、3年間南方の4つの島で毎日死を前にして戦った逆境が私をつくってくれたがゆえである。その逆境から多くを学び歩んできた。共に戦った中で、現在達者で生きているのは私一人である。今生かされ生きているだけを幸せに感じる。逆境が人間をつくる一心は、万変に応ずといえるだろう。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2023年3月)より』

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