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Vol.255 「不惜身命但借身命」

2023/06/30

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

この言葉は「仏教で言う、道といい法というは、なにものにも代え難い尊いものであって、その尊いものを求め行ずるには、この身この生も惜しまない」という意味である。私がこの「不惜身命云々」という言葉を耳にしたのは、1994年、貴乃花横綱の昇進伝達式の光景である。その式場で、二子山親方の前に両手をついてこの口上を述べていた。命懸けで横綱道を行ずるのを誓ったのである。

はばかりながら、私にも不惜身命の体験がある。貴乃花と違っているのは誓っただけでなく、実行してきたことにある。青年期に過ごした3年間、南方の戦場体験である。よくぞ生き抜いてきたものだと、今でもその奇跡のような出来事に夢見る思いがしている。第一線に出してくれと申し出て最初に赴任したのが、ニューギニアに隣接するラバウルであった。その後、部隊はサイパン島からペリリュー島、続いてフィリピンへと転戦したが、わずか3年間に4戦場を戦ってこられたのは、ゼロ戦の航空隊だったからだ。

最初のラバウルでは、壮絶な胸がすくような戦いぶりに、私は血湧き肉躍るのを覚えた。毎日100機に余る戦爆連合の来襲があったが、その度に待機していた我が戦闘機隊200機余が一斉に邀撃に飛び上がり撃退していた。しかしその度に若干の搭乗員と機材を失い、B24爆撃機の投弾には私たち地上整備員にも戦死者が出た。私たちは機を出発させた後、滑走路の縁につくった土盛りの防空壕に待避していたが、B24が落とす1屯爆弾には跡形もなく吹き飛ばされていた。

日を経るにしたがって、我が方は搭乗員と機材の補給が思わしくないに比し、米軍は損失を上回る増強を示し、戦力の差が日増しに大きくなっていった。このまま推移すれば、やがてこの地は米軍の支配下になり、私たち地上員の死もそう遠いことではないと考えるようになっていた。毎夜就寝時に「今日は無事だったが、明日は俺の番かも分からんぞ」と言い聞かせて眠った。ある深夜、心の奥から「びくびくせずに、潔く死ね」という声が聞こえてきた。ハッと我に返り「そうだ!国や家族の平安のために、命を捨てるのは男子の本懐ではないか」と思った途端、躊躇することなく死を受け容れることができた。

それ以来、心は青空のように澄み渡り、例日の雨と降る弾雨の中を平気で動き回れるようになっていた。この思わぬ変わりように驚くと同時に、私に死を受け容れさせたのは、理性や心ではなく、魂の力に違いないと確信するに至った。以来、自分が魂の存在であるのを知った私の人生観が一変したのは言うまでもない。

ラバウルに続く各戦場で死を受け容れた例は数知れないが、強く記憶に残る例を記す。昭和19年1月、我が戦闘機隊はサイパン島へ移動することになり、私たち地上員250名余は2隻の貨物船で行くことになった。当時すでにラバウルは、空も海も米軍の支配下にあり、出ていく船はすべて沈められていた。出航の前夜、船が沈めばどうして死ぬかを考えると、頭が冴えて眠れず時間だけが過ぎていった。最後は泳ぎ疲れて窒息死するしかないのかと絶望を感じていたが、ふと閃いたのは、海底に向かって潜って行き、ある深度に達すると失神することを思い出した。これなら私にはたやすいことだと思うと、安心して眠ってしまった。

出航の翌日、予期した通り1機のコンソリー双発爆撃機が飛来し、爆弾を投下された。逃げようがないので甲板上で見ていると、爆弾が隣接の僚船黒川丸を直撃し、見る見る舳先を上にして沈んでいくのが見えた。幸いに我が海河丸は至近弾のみで、甲板に立つ私が海水を浴びただけだった。しかし、米軍は無傷の我が船を見過ごすわけにはいかなかった。翌日の昼頃、見張り員の「雷跡!」の大声と同時に魚雷が命中し、轟音と共に私は甲板に叩きつけられた。身体を撫でまわし傷してないのを確かめるや、2発目の魚雷は必至と見て、何も考えず舷側から海へ飛び込んだ。行くも留まるも死だったが、いざという時、あの手で死のうと筋書きを決めていたので少しも慌てなかった。私の度胸の良さは、こうした洗礼を受けてつくられたといえる。

私は太平洋のうねりのような波間に浮かびながら、死ぬときの力を温存しておこうと漂っていた。うねりの頂上に来た時だけ、同じように浮いている多くの兵士たちが見えた。ふと見ると、いつの間に来たのか、遠くに駆逐艦がカッターで救助作業をしているではないか。私は急ぎ泳いで行きカッターに引き揚げてもらった。おかげで、せっかく考えた「あの世行き」の妙案を実施するチャンスを逃してしまった。しかし、残念にも戦死者は35名だった。

サイパンに到着したが、戦況我に利あらず、我が戦闘機隊は急遽ペリリュー島へ、空母千代田にて夜間に高速異動した。ペリリュー基地では、3月30日米機動部隊が来襲し、ラバウルに次ぐ凄まじい邀撃戦を行ったが、衆寡敵せず我が戦闘機隊は全機未帰還、私たち地上員を含め246名戦死、ゼロ戦32機を失った。翌日、グアム・サイパン両基地よりゼロ戦52機応援に来るも、全機南溟に散った。二日間の戦闘で防御力を失った我が島は、敵の上陸必至となり、私たちはその地点と思われる海浜に航空爆弾を埋めて待った。私は、良い死に場所が与えられたと思った。

ラバウル以来、数知れぬほど死ぬ目に逢いながら、よくぞ生きてこられたものだ。もう年貢を納めてもよい頃だと思っていた。夜明け前に上陸が始まるとみて、目を皿にして海上を睨んでいたが、夜が白々と明けてきても上陸してこなかった。来ないはずだ。我が戦闘機隊がいなくなったサイパンが、今空襲中と知らせてきた。またも私は戦死の機会を失った。それどころか、1週間後上司から「明日、隣のパラオ島から出発の2式大艇(4発の水上飛行艇)で内地へ出張、ゼロ戦32機を制作会社から受領し、フィリピン・セブ基地に輸送せよ」との命令を受けた。上司は、ラバウル以来の私の死を賭した不惜身命の働きを視て、若輩の私にこの大役を託したに違いない。認められた嬉しさと同時に、身の引き締まる思いがした。敵前上陸寸前のペリリュー島から内地へ帰国するなんて、なんと俺は運の強い男かと思った。

翌日パラオを離水して、太平洋上を8時間程経た頃「日本へ着いたぞー」の声に、眼下を見下ろすと、房総半島の西海岸を北上していた。良く見ると、ちらほら桜が咲いているではないか。途端に、どっと涙がこみあげてきて止まらなかった。生きて二度と見ることはないと思っていた祖国の桜に感動したのである。

飛行機制作会社でゼロ戦32機を受領し、1式陸攻にて、台湾経由フィリピン・セブ基地に無事空輸の大役を果した。ところが、私がペリリュー島を出た後、残りの隊員全部は大型客船ジョクジャ丸にてセブ島に向かったが、魚雷を受け沈没、生存者のみセブ基地に到着したという。私は内地へ出張していたので、2度沈没の難を免れた。やはり俺は運をつくる強い男であり、不惜身命のしからしむところだと思った。戦場は、この不惜身命の思いなしには、1日として生きていけない世界だった。

戦後、経営者にも不惜身命の思想が必要だと、京セラの稲盛和夫が述べている。私も戦時中と変わらぬ、裸一貫になる不惜身命の体験がある。戦後、親子3人で24坪の工場から始めたが、油圧クレーン車を開発するやたちまち注文が殺到し、数倍の設備拡大を計画した。その多額の増設資金の融資を銀行に求めたが、おいそれとは応じてくれなかった。もし、この計画を達成しなければ私の将来はないと思い、自分が持つわずかな土地・家屋・預金を担保に提供することを提案した。その不惜身命の熱意が決め手となったのか、融資に応じてくれた。

不惜身命は、悟りの境地を示しており「生死一如」の魂の世界である。かつて戦場で死を受け容れることができたのは、魂が心と身体を統御・支配できることを明らかに示している。すなわち、命を投げ出したときにのみ、偉大な力が生まれたのである。不惜身命というのは、死に甲斐を求めたことが同時に生き甲斐になることである。ことわざにも「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」があり、捨てなければ得られないのだ。無一物が、無尽蔵を生むのである。何と言おうと、私の一生は不惜身命で生きてきたと自負している。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2023年5月)より』

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