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Vol.256 「我が人生の詩」

2023/08/01

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

この表題をみて、我が人生の日々を振り返ってみた。根底にあったのは、魂の悦びである。その端緒は、私の青年時代に得た魂の目覚めに始まっている。

それは、兵役の義務を早く済ませたいという思いから、徴兵1年前に海軍に志願したことに端を発する。入隊の翌日から、予想に違わず鉄拳の制裁を毎日のごとく頂戴し鍛えられた。軍隊というのは、理由がどうあろうと命令には絶対服従という世界であった。父にも叩かれたことがない私は、口惜しさと情けなさに、毎夜ハンモックに入ると泣けてきた。

何日か経た頃、ふと涙する自分を顧みて、殴られたぐらいでめそめそしている自分に気が付いた。「お前はそんな情けないひ弱な人間なのか、もっとしっかりしろ」という気持ちが湧いてきた。「これからはいかに制裁されようとも、進んで受けてやる」という気持ちになっていた。以来、制裁の様相は少しも変わらなかったが、口惜しさ情けなさが吹っ切れたのである。「心頭を滅却すれば火もまた涼し」はこのことか。その時私は20歳、ひたすら純粋で真剣であった。

1年間、心身共に鍛えられ、不撓不屈の忍耐力を身に付けた私は、勇躍南方の戦場ラバウルの戦闘機隊に赴任した。だが、1年間の訓練などとは桁違いの、毎日が死を前にした壮絶な戦いが展開されていた。その都度、100機を超す戦爆連合の来襲があり、B24が落とす1トン爆弾で、私たち整備員にも死傷者が出た。毎夜、寝に着くとき「今日は無事だったが、明日は俺の番かもしれぬぞ」と自分に言い聞かせて眠った。

ある深夜、心の奥から「びくびくせずに潔く死ね」という声が聞こえてきた。「そうだ!自分の死は、祖国や家族の平安に捧げる崇高な行為で、男子の本懐だ。いずれ死ぬなら前から撃たれて死のう」という気になった。この私に死を受け容れさせたのは、理性ではあり得ず、魂に違いないと思った。自分が魂の存在そのものであるのを知った瞬間だった。心は一点の曇りなく晴れ渡り、不思議にも、弾雨の中を平気で動き回れるようになった。

間もなく部隊はラバウルからサイパン島へ移動することになり、私たち地上勤務員250名余は2隻の貨物船で行くことになった。ところが、当時すでに海も空も米軍の支配下に帰しており、出ていく船はすべて沈められていた。これまで敵弾を受けての死は覚悟していたが、船が沈めばどうして死ねばよいか、泳ぎ疲れての死以外に道はないのかと考えあぐねた。だが、どうにもならぬとギブアップしそうになった時、ふと閃いた。

水中深く潜り、ある深度に達すると、意識を失い苦痛なく死に至るのである。泳ぎ疲れての水死でなく、積極的に力を出し切っての昇天である。これなら自信をもって死んでいけると思うと、安心して明け方まで泥のように眠ってしまった。生き延びることを断念できたことが結果的に魂を目覚めさせ、水中深く潜って死ねと教えてくれたのだ。

私たち2隻の船は出航の翌日、コンソリ米爆撃機1機が飛来、投弾してきた。甲板上に立って「当たるかなぁ」と見ていた瞬間、どっと海水が降ってきた。至近弾だ。ふと見ると僚船黒川丸が直撃され、舳先を上にして目の前で沈んでいった。我が船は無傷だったので航行を続けたが、翌日の昼頃、見張り員の「雷跡」の声と同時に魚雷名中、私は轟音と共に甲板上に叩きつけられた。

思わず体を撫でまわし、負傷してないのを知ると同時に、二発目は必至とみて、何も考えずに航行中の舷側から海へ飛び込んだ。行くも止まるも死だったが、不思議に何の悔いもなかった。船は見る見る内に遠ざかり、太平洋の波間に一人浮いていた。既に、水中で死ぬ手順を決めていたので、決行するには早過ぎる、その時の力を残してゆっくり浮かんでいた。ふと見ると、いつの間に来たのか、遠方で駆逐艦がカッターを降ろし救助作業しているではないか。急ぎ泳いで行き引き揚げてもらった。水中深く潜る必要なくサイパンに到着した。なんと俺は運の強い人間か思った。

続く、サイパン、ペリリュー、フィリピン・セブの各戦場でも、これが最後かと思うことが度々あった。その都度、この時こそ死ぬ絶好の機会だと思って戦ったが、気が付いてみると生きていた。これはどう考えても、何ものかによって生かされている自分を認めずにはいられなかった。

3年間の戦場で得た体験は、戦後70年余の人生を、素晴らしいものにしてくれた。自分の持てる資質を最大限に発揮して、可能性を追求することであった。最初に挑戦したのは禁煙であった。禁煙もできないようで、どうして自分の将来を見込めるかと思ったからだ。意外にも、何の苦しみもなく禁煙できた。そこでさらなる課題として、アラームなしの5時起床を取り上げてみた。かつて海軍で身に付けた、スタンバイ(5分前に精神)の再現である。実行して見ると、たちまちあの規則正しい生活が思い出され、充実した爽やかな一日を過ごせるようになった。その快適さのもと、起床後、ジョギングを始めた。

以来、5時起床とジョギングは習慣となり、93歳まで53年間続いた。その間、ジョグ後の冷水シャワーを2年続けた後、庭にプールをつくり、ジョグ後に泳ぐことにした。無論、年中無休で42歳から始め、93歳まで51年間続いた。それと並行して、毎年元日の朝、庵治の海岸で寒中水泳を行った。44歳から93歳まで49年間続け、並行して、献血、ハーフマラソン、エッセイ刊行等も加わった。

会社の経営も同様に、絶えず改善に挑戦し続けてきた。なぜこのような苦痛を伴うことを続けてこられたのだろうか。これは理性や意志の強さに関係なく、克己の悦びと魂の快感を知ったからだ。苦難なことを積極的にやりとげた時、自分を統御できた、己に克ち得た人間最大の悦びが出現する。また苦難が大きいほど悦びが大きく、続けずにいられない好循環が形成されていった。

このようにして、青年期に得られた魂の目覚めが、戦後の活かされた命を世のため人のために役立てる、悦びに満ちた日々となり、我が人生を貫いた詩となった。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2023年6月)より』

航海日誌