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Vol.258 「悲愁を越えて」

2023/10/02

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

「悲愁を越えて」とは、深い悲しみや憂いを乗り越えて、前を向いて生き抜けよという意味である。私の長い人生を振り返り、最大の悲愁は戦争での体験といえる。多くの戦友が目の前で命を落とし、我が身が死の危険にさらされ続けた3年間である。死がもたらす別離の悲しみと、死が我が身にせまりくる日々を乗り越えた。

私は不思議に、戦場の中で過ごすうちにいつの間にか死を恐れなくなっていた。それは多分、かつての戦場における行動を通して、死の見方が変わっていったと思われる。毎日やってくる敵襲に対する邀撃戦闘で、私たち地上の整備隊員の中にも次々と戦死者が出た。その度に戦友同士が亡骸を担いで行くのを見送った。別人かと思うほど変わり果てた彼らを見て、まさに明日の我が姿ではないかと思うと、悲しみはどこへとやら、ただ粛然として神妙な気持ちだけしかなかった。彼らはもう死の危険がない安住の居所に移れたのである。冥福を祈りながら、祝福してやりたいとさえ思った。

私は隊員の中で一番やる気がある兵士と見られていた。その所為だろうか、死が見え透いた危険な場所に次々に派遣された。その度に、良い死に場所を与えてくれたと進んで出ていったが、結果いつも生かされてきた。これはどう考えても私の力ではない、宇宙(神ともいう)の意志を帯びた、魂の力であると信じるようになった。以来、私は宇宙教の熱心な信者になった。その功徳が、102歳の私の生涯をつくってくれたといって間違いない。

魂の存在に目覚めた私は、死に対する考えも一変した。死は何ら恐るべきではない。 死は魂の容器である肉体の消滅であって、魂は形がないから消滅しない。消滅しないのだから永遠に生きると考えた。死は悲しみ恐るべきものでなく、死は眠りと同じだということである。

私たちは毎夜就寝するのだが、自分がいつ眠ったかを知る人はいない。なぜなら眠った時、すでに意識がないから知ることができないのである。私たちの死も眠りと同じで、いつ死んだか知らぬ間に死んでいるのであろう。死とは大いなるものから預けられた命をお返しすることだと捉えている。

かつて私に、臆することなく命を捨てる覚悟をさせた魂の存在を知って以来、強力な自信と豊かな精神力の保持者となっていた。その自信と精神力は克己の行動となって、私の人生をつくったのはいうまでもない。克己の行動は次々と苦難を凌駕していき、最大の喜びになった。

戦争という悲惨な人間同士の殺し合いは二度と起きてはならない。が、戦争が我が身に与えた苦難、それを乗り越え奇しくも帰還できた体験は、私にとっては成長進歩の糧となった。ゆえに、我が身に起こるいかなる苦難も、必要だから神が与えてくれたのだと受け取れるようになった。思えば、私の一生に無駄なことは一つもないのは、苦難の全てがプラスに転じているからだ。

死は生と同様に、必要だから与えられているのである。死があるからこそ私たちは生きていることが喜びとなり、一日を充実した悔いないものにすべきと考える。以上、私の体験から「悲愁を越えて」について述べた。一目いただければ幸甚である。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2023年8月)より』

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