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Vol.259 「時代を拓く」

2023/11/01

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

時代を拓くとは、自分を拓くこと、自分の運命を拓くことである。一つの時代に対し、自分の運命を拓いていける人にして、初めて時代を拓くことができる。私は間もなく満103歳を迎えるが、百年余の人生をどう拓いてきたかを問うてみる。

私の波乱に富む生涯を貫いてきた気概は何だったのだろうか。振り返ってみると「独立自尊」の気質ではないかと思う。それは小学校の頃から始まっている。1年生の終わり頃、担任の先生が訪問され母に、「多田野君は答えが分かっていても手を挙げない」といわれた。私は、もし間違っていたらと思って挙手しなかった内気な少年だった。皆笑うだろうが、今でもそのシャイな気質が残っている。1学年が終わり、通信簿を母に見せた。品行方正、学力優等、席次1とあり、母の嬉しそうな笑顔が見えた。在学中は席次1を保持し、級長にも指命された。なぜこのようなことを自慢たらしく述べたかは、最初に掲げた「独立自尊」に関わっているからだ。

家で教科書を開いた覚えがないのに好成績だったのは、多分、父母や先祖の血筋のおかげだろうと考えた。とはいえ、皆と違っていることだけは確かだった。むしろ、皆と同じであってはいけない、違ってなければいけないのだと思うようになっていた。同級生たちも一目置くようになり、自然に独りを好むようになった。他の気持ちを忖度する必要がなくなり、自由に過ごすことに孤高の誇りさえ持つようになった。このような経緯が「独立自尊」の気概を培ってきたのだといえる。

小学校を終える頃、父から大阪の職工学校へ行くよう勧められた。私は職工養成の学校などへは行きたくないと返事を渋った。自分の学力ならどんな有名校へも行ける自信があったからだ。父はさらに、この学校は優秀で競争率が8倍だという。香川の有名校でも競争率が2倍とか3倍になったと言って大騒ぎしている。ならばと挑戦を決め、合格した。それにしても、13歳の子を大阪に送り出した父の英断に今でも感謝している。私の人生を拓く端緒になっているからだ。

入学してみると、校名のとおり学業に比して実習時間が多かった。しかし、ここで機械工学の基礎を習ったことが、私の一生を貫く仕事の礎となった。また、実習からは、汗と油にまみれて働くこと(労働)が苦痛ではなく悦びになることを知った。まさに運命は自分を拓いていくものだといえる。5年の学業を終える頃、自分の将来について父に問うてみた。

卒業すれば間もなく徴兵検査があり、陸軍は2年、海軍は3年の兵役の義務があった。そこへ耳寄りなニュースを入手した。海軍では、工業学校機械科5年修了者に対し、航空機整備に従事すれば兵役の義務を1年とし、後は予備役とする志願制度が発表された。私は卒業後早く社会に出て実力を試したいので、志願する旨を恐々述べてみると、快く賛同してくれた。その頃巷間では、「誰もが嫌がる軍隊に志願する馬鹿がいる」と言われていたが、自分の人生は自分がつくるものだと気にならなかった。

昭和14年10月(徴兵1年前)に、横須賀海軍航空隊に第1期生として入隊した。入隊前「海軍は殴って教える所」だと聞いていたが、予想外の凄まじいものだった。私たちの懸命の動作に関わらず、「遅い、気合が入ってない、娑婆っ気が残っている」などと注意され、その度に鉄拳の制裁を頂戴した。普通3年かけてつくる海軍軍人の素養を、1年で済ますのだから当然だった。一日中が緊張の連続で、全身全霊を捧げて過ごした。1年を終えてみると、我ながらほれぼれするほどたくましく、心身共に成長しているのに気付いた。よくぞ殴って鍛えてくれたと、今でも海軍の伝統と気風に感謝している。

1期生の教程を終えて予備役に編入したが、時を経ずして召集令状が届いた。すでに日米戦争が始まっていたのである。指示された航空隊に入ったが、そこは搭乗員養成の隊だった。前線からの激しい戦闘のニュースに私はじっとしておれず、上司に前線の部隊に転属を申し出た。隊員の中では私だけだった。この「独立自尊」の判断が、後の私の人生を拓く基になっている。

徴用の貨物船で、ニューギニアの東隣ラバウル基地に向かう途中、日本軍が占領して間もないウェーク島に寄港した。接岸して甲板上から見た光景は驚きの連続だった。海岸の砂浜には、上陸戦の時に乗り上げたわが駆逐艦2隻の残骸と、戦死した多くの日本の将兵の墓標が立ち並んでおり、並び立つ多数の塔が、日本にはない電波探知機であることが分かった。飛行場を見ると、多数の土木建設機械を日焼けした半裸の米軍捕虜が運転し、滑走路の周囲で働いているのが見えた。それら機械はすべて、油圧構造であるのが分かった。運命は恐るべき力を持っている。その光景から得た印象が、戦後の私の人生をつくった油圧クレーン開発のヒントになっている。

運命をどう考え、人生を拓くかが今回の命題に大きな比重を占めている。運命には、私たち人間の浅はかな知恵の及ばない、宇宙の大きな力が働いていることを念頭に置かなければならない。それに私たちがどう関わっていくかによって、人生にプラスに働くかマイナスに作用するかが決まるからだ。

普通、運命を「決まりきった人生の予定コース」で、生涯動かすことのできない「宿命」のように解釈しているが、運命は固定的なものではなく、可変的なのである。運命はその素材を与えるだけで、それを私たちの責任において、プラスにもマイナスにもできる。運命より強いのは人間の精神である。何かが起こった時、私たちの対応の仕方を全く違ったものにする。善いことが起こるより悪いことが起こりがちだ。善いことばかり起きる人生なんてどこにも存在しないという、運命の全てを肯定することである。それは無力の諦めでも、戦いの放棄でもない。苦しくともそれを受け容れることである。それはちょうど自分にとって必要だから与えられたのだと受け取るのである。運命には指一本逆らえないと思ってしまえば、人間は運命に操られるロボットに化し、自主性や主体性、自由を失ってしまう。

私は、自分にまつわる運命は可能な限り変えていくが、もしそれが不可能であれば、例えそれがどのような理不尽、不条理なことであっても、嘆かず悲しまず起きたことは起きたこととして事態を受け容れ、その上で、さてどう対処すべきか最善の方法を考える。結果うまくいったか、いかなかったかどちらの場合でも精神的に成長できると信じている。

運命にたたかれ、鍛えられ、苦しむことがなかったら、私の人生は形成できなかったことは確かである。青年期に過ごした過酷な戦場の体験から、運命をどう受け容れればよいかを学ぶことができた。迫りくる避けられない死の運命を進んで受け容れた瞬間、全てから解放された自由と、計り知れない精神的支柱を得られた。あの辛く悲しい、みじめな思いは二度と味わいたくないが、運命とはそういう選択不可能な出来事なのである。

たとえ好ましくない運命、避けたいと思う運命ほど貴重な教訓を含んでいる。私は、運命には無意味なもの、無価値なものは何一つないと確信している。運命は、「人間万事塞翁が馬」の例えのように、幸運の裏に災いの種が潜んでいるし、不運と思われる中にも好運の種が隠されている。

フランスの哲学者アンリ=ルイ・ベルクソンは「人間というものは、自分の運命は自分でつくっていけるものだということを、なかなか悟らないものである」と述べている。私の「独立自尊」の気概が、自らの運命を拓き、時代を拓いてきたといえるだろう。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2023年9月)より』

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