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Vol.261 「幸福の条件」

2024/01/04

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

表題は、私たちが幸福になるためにはどのような条件が必要なのかを問うている。この問いで私が真っ先に頭に浮かべたのは「自分の幸福など眼中になく、一度も考えたことがない人」が、最も幸福な人だということである。

なぜそのような常識外れのことがいえるのか。それは、身の回りの出来事をどう受け取り、どう感じるかの態度によって、幸・不幸が決まるからだ。例えば「雨が降ってきた」ときに、ある老人は「いい雨だなぁ!」と言う。もう一人は「鬱陶しい雨で嫌だなぁ!」と言う。どちらが幸せかは言うまでもない。

また、主人は大会社の社長、息子は東大に在学中、大邸宅に住み、人も羨む暮らしの奥さんが「私はなんて不幸せなのだろう」と感じていれば幸福ではあり得ない。一方、親子3人6畳一間でつつましく暮らしていても、「私はなんて幸せなのだろう」と感じていれば幸福なのだ。

幸福とは、心が満たされていて、何事にもありがたいと感じられることである。従って、いくつかの条件が揃えば得られるのではなく、感じることであり、与えられるものである。故に、今生きている当たり前のことを生かされているのだと感じられる人は最も幸福だといえる。つまり、幸福とは実態がなく、どう感じるかによる。幸福を追い求めているのでは、今の自分の幸せを少しも感じていない。それは、幸福の追求に振り回され、自分を失っているといえる。

ロシアの文豪レフ・ニコラエヴィチ・トルストイは、ロシア皇帝から貴族の称号を賜り、広大な農地を有し、国民から聖人と崇められていた。しかし、近くに住む老農夫妻の笑顔の絶えない幸せな暮らしを見て、自らの生きざまにそれがないのに我慢ができず、80歳の時、全てを捨てて家を出奔した。近くの駅長宿舎に寝ていた彼は連れ戻されたが、2年後に再び家を出た。野垂れ死にするかもしれない家出の中に、自分の信念に基づく幸福があるのを確信していたに違いない。自分の命さえ捨てられる、無一物中無尽蔵の境地を示して余りある。

私も似た体験がある。青年期に南方の戦場では、毎日が生死を定めぬ日だったからだ。その間幾度も死が見え透いている戦場に出動を命じられたが、その度に良い死に場所を与えてくれた恩寵に、感謝せずにいられなかった。死に方の練習をしたプロの私は躊躇することなく飛び込んでいったが、その都度生かされてきた。3年余、4戦場(ラバウル、サイパン、ペリリュー島、フィリピン)を生き抜き、今日103歳を迎えているのは、恐らく数十万の兵士の中で私一人だろう。共に戦い、先に逝った戦友に恥じない日々を歩んでいることが私の誇りであり、生きがいになっている。なんという幸福者か言葉で表せない。

戦後の生活は厳しかったが、私には命の危険がない天国だった。いかなる過酷な状況に遭っても、私の成長進歩に必要な天の恩寵だと受け取れるようになっていた。身の回りの出来事を全てプラスにできたのは、死線を越えてきた賜物であった。

世界中でベストセラーになった、オーストリアの精神心理学者ヴィクトール・E・フランクルの著『夜と霧』に、「幸せになるのを邪魔しているのは、まさに“幸せを追求すること”それ自体なのである」と述べられている。なんと、私と全く同じ考えだったので、驚くとともに大いに意を強くした。

幸せは感じるもので、求めて得られるものではない。自分を活かし、他のために尽くす行為によってのみもたらされる。それは丁度、風呂の湯の中で手前の湯を押しやると、脇から自然に湯が寄ってくる原理といえる。自分の幸福など眼中になく、他のために尽くす心の豊かさが幸せの条件といえるのではないか。

 

 

幸福の条件 追加 H―064 追悼の辞

 

「謹んで第201航空隊の英霊に対して、隊員を代表して追悼の辞を申し上げます。第2次世界大戦に、この地に散華された多くの英霊に対する追悼慰霊祭は、永い間私たちの念願でありましたが、戦後30年を経た今日、中野司令以下、元隊員ならびにご遺族の方々と共に、この由緒深きマバラカットにおいて行えますことは、この上もない喜びであります。

私たち201空は世界に類のない神風特攻隊の母体であることを最上の誇りとしています。思えば私たち201空は、マーシャル群島を振り出しに、ラバウル・サイパン島・ペリリュー島、セブ島・マバラカットの南東太平洋の主戦場を基地にしてよく戦いました。しかし、戦局我に利あらず、遂に当地域は祖国日本の最後の防衛地となりました。私たちはこの地に来て、ここが俺たちの死に場所だ、一億同朋を守るために喜んで死のうと、一点の私心も無く神のように崇高な気持ちになって、誰もが進んで死地に飛び込んで行きました。

しかし、運命の神はあなただけを召されて、私たちをこの世に残してしまわれました。同時にかつて神風特攻の発信基地であった、当マバラカットにも限りない愛着を覚えるのです。おそらく、神風特攻を生んだ201空と当マバラカットの名は世界史上にその名を留め、未来永劫、人々に語り伝えられることでしょう。今、夏草茂るかつての戦場に立って静かに瞑目すると、懐かしいあなた方の元気な顔が浮かんでまいります。そこここの草の影から『おう、きてくれたか』と飛び出してきそうな気がします。

以来、残された私たちは、あなた方の死を無にせぬために祖国の再建に取り組みました。見てください。30年を経た祖国日本の姿を。今や経済大国として世界をリードし、また世界無比の平和憲法を持つ国として、世界の平和に貢献する偉大な国となりました。あなた方の尊い死が決して無駄でなかったことを、ここでご報告申し上げると共に、これからの私たちの行く手をいつまでもご照覧くださいますよう、お祈りいたしまして追悼の辞といたします」

昭和50年8月10日フィリピン・マバラカット追悼式   元201空隊員  上等整備兵曹  多田野 弘

追悼式

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2023年11月)より』

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