
私の100年余の生涯を振り返えると、生き方のヒントにつながった出来事が3度ある。
第一は、私が小学校卒業の時、父から与えられた提案であった。卒業後、大阪の職工学校へ行くよう勧められた。その頃、父は私にとって慈父というよりは、師といった怖い存在だった。いつも寡黙で、私に「せよ、するな」という指示的な言葉をかけられたことがなかった。終始、温かく見守ってくれているのを感じていた。私を頭に四男二女の養育のため、懸命に働く姿には威厳があった。
私は職工学校という名が気になって返事を渋った。しかし、競争率が8倍で府立の有名校と聞き、父の大きな期待を感じて入学を決めた。それが、私の機械技術者としての生涯をつくるきっかけとなった。
第二は、戦場での体験である。それは、私の徴兵適齢期の前年に、海軍に制定された航空機整備兵の徴兵義務が1年で済む好条件に惹かれて応募したことに始まる。入隊後間もなく日米開戦になったが、1年間は基礎訓練部隊で鍛えられ、3年間を南方の戦場で戦いに従事した。
戦場に向かう途中、占領直後のウェーク島で見た、捕虜が運転する米国製の土木建設機械が、私が後に生涯の仕事とする油圧クレーンのヒントになった。ウェーク島で見たそれらの機械が、すべて油圧で動いているのが分かった。職工学校で学んだ基礎があり、既に日本の航空機の油圧機構を知っていたからだ。
南の戦場での3年間、毎日空襲があり、生死を分ける凄まじい日が続いたが、詳細は先月の語録にも述べた。3年間よくぞ生き抜いてきたものだが、それは自力でなく大いなるものに生かされていたのである。生きているだけで有難いと思えるようになった。その恩に報いるべきだと心に命じたのは当然である。その思いが高じて、油圧クレーン開発のヒントが熟成されたと言える。
第三は、戦争が終結し、私は父と弟の3人で、焼け跡に建てた24坪のバラック建てで小規模の機械修理工場を始めたことである。国内の復興の機運と相まって、朝鮮事変勃発の軍需景気もあり仕事は増えていった。そうするうちに、開戦当初に見たウェーク島のことが思い出された。「ダメもと」でもいい、油圧を利用した荷役機械をつくってみようと考えた。これがなんと、80年後の我が社の誕生起源になった。
未熟な知識と技術で、簡単な構造の試作機をつくり上げた。無様な格好だが、2トンの重量物の揚げ降ろしが可能なことが確認できた。それはなんと、日本の油圧クレーン歴史のこうしだった。日本中で唯一、油圧を利用してクレーンをつくろうと考えたのが私だった。
試作機を発表以来、予想しなかったほど注文が舞い込んできた。それに応えるべく、急遽工場規模を拡張し人員も機械も増やしたが、生産は計画通り進まなかったどころか、混乱が続くのみだった。その原因が分からず眠れない夜が続いたが、それは当然であった。未熟な25歳の若者が企業経営の何たるかも知らず、海軍で身に着けたリーダーシップだけで経営していたのである。
模索を続けるなか、企業経営の書ピーター・ファーディナンド・ドラッカー著『現代の経営』をみつけた。私は飛びつき貪り読んだ。まさに、干天の慈雨とはこのことだろう。自分の愚かさを知ると同時に、一字一字がドスンと腹に入っていった。企業経営の目的は「社会的価値を創造することによって、社会に貢献することにある。利益は、その貢献度に相応して社会から与えられる」とあった。
もし、利益追求を目的に経営するならば、その企業に関わる顧客はもとより、従業員も取引先も、企業の利益追求目的の手段にされてしまう。そのような企業に発展はあり得ない。私はドラッカーの透徹した経営哲学に惚れ込んでしまった。私の人生観と一致している。勇躍、具体的な経営制度の改革に着手した。この改革案で会社が潰れても惜しくないとさえ思った。
まず、出勤簿とタイムレコーダーの廃止である。続いて、工場従業員の日給制を月給制にした。驚くことに、それらが社員の自主、自律的意識を促し、創造的となり、生産が一挙に進むようになった。人は監督してはならないし、監督されてはならないのである。現在、この社風は我が社の誇れる文化となっている。製品の65%を輸出する世界的企業に発展し、輸出先のトップが米国になっている。
私は独立自尊の考えで疑問を直視し、あえて厳しい課題と真剣に取り組んできた。振り返ると、一つ一つの出来事を人生のヒントとすることで成長できた。先日、私は運のいい人間だと述べたが、生き方のヒントを次々に与えられた世界一の幸せ者だと思う。なお創造的な生き方を続けて、成果が産まれることを望んでいる。
『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2024年12月)より』