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Lifting your dreams
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航海日誌

Vol.228 「自靖自献」

2021/04/02

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

「自靖自献――自ら靖んじ自ら献ずる」は、古典の名著『書経』に記されている。人間学を学ぶ者の要となる言葉であり、人間が生きていくうえでの基本的な考えともいえる。自ら靖んじるとは心の平安を保つこと、安心立命することであり、自らを献じるとは世のため人のために尽くすことである。

しかし、自らを靖んじ自らを献じることは、自分が無心になる没我の精神を必要とする。ゆえにこのような考えは、誰もが理想の人間像として承知しているが、実現できる人は稀である。自分を無にするという心境は、心(理性)で考えてつくれるものではない。これは心で扱う問題ではなく、魂の領分だと私は直感した。

魂について語るのは、その存在に目覚めたことが私の一生をつくってくれたからである。魂という言葉には「武士の魂、大和魂」「魂がこもっている」などがある。しかし誰もが、魂とは人間にある何か強い力のようなものという程度の認識である。

魂には形がなく、見ることも触れることもできず、何事かに感動した瞬間、命懸けで何かに取り組んでいるときにしか存在に気付くことができない。その気付きは「ひらめき・天啓」のようなもので、言葉にすることができない。ともあれ、私は幸いにも魂の存在に気付く機会に恵まれたのである。

昭和18年末、23歳の私は最前線の激戦地ラバウル航空基地にいた。連日、100機に余る戦爆連合の来襲があり、ボーイングB24が落とす1トン爆弾に多くの人員機材が失われた。その補給の違いが彼我の戦力の差をさらに大きくしていった。そう遠くない内に自分の死は免れないことが、一兵士の私にも感じられた。

毎夜、寝に就くと「今日は無事だったが、明日は分からんぞ」と自分に言い聞かせて眠った。ある夜、「びくびくせずに、潔く死ね」という声が心の奥から聞こえた。「祖国のために、一命を投じるのは男子の本懐、前から撃たれて死のう」と死を決意できた。途端に、晴れ晴れとした気持ちになり、新しい勇気が湧いてきた。同時に、私に死を受容れさせたその声は、魂からでたものだと思った。しかし魂の存在がどのようなものかは釈然としなかった。戦後になって、多くの先哲の書から魂こそが人知を超えた力を持つのを知った。

レフ・ニコラエヴィチ・トルストイの書『人生の道』に、「私たちの肉体に生命を与え、これと密接に結びついている肉体でない『何者か』があることを知っている。この『何者か』を私たちは『魂』と名付けている。またこの世に存在するすべてのものに生命を与え、そして何ものにも結び付いていない、肉体的でない『何者か』を、私たちは『神』と呼んでいる。そしてあらゆる信仰の基礎は、この目に見えない『何者か』があるという事実の上に築かれている。しかし、人間の内部に『神』と『魂』とが宿るということを、理性によって悟ることはできない。

私たちが『神』を知ることができるのは、理性によるよりはむしろ、多くの人が乳飲み子のとき、自分を抱いている母親の腕の中で感じるものに似ている。赤子は誰が自分を抱いているかを知らない。誰が自分を暖めてくれているか、誰が自分を養ってくれているかを知らない。だが、そういう何者かが居ることだけは知っている。いや、ただ知っているだけでなく、自分を腕の中に支配している人物に任せきっており、しかもその人を愛しているのだ。私たちと神との関係もこれと同じである」と述べている。

また、哲人ソクラテスは、「人はいかに生きるか。よりよく生きるにはどうすればよいか」について問い続けた。彼は死ぬ前の紀元前399年までの5年間に歴史に残る大活躍をした。その頃の日本は、竪穴式の小屋に住む弥生時代初期で、誰もが食べることしか考えていなかった時である。ソクラテスは既に人間の生き方を思考し魂の存在を身に付け、多くの人に説いて回った。ところが、国中の知者・賢者は彼を妬み、無実の罪で訴えた。彼は裁判にかけられ死刑が宣告された。死刑執行日の直前に弟子たちと交わした会話は、魂についての深い洞察であった。魂は肉体と共に滅びるものではなく、あの世でも生き続ける不死の存在であり、この世では魂を正しく成長させることが重要だと訴えたといわれる。

私はこれほど分かり易く、神と魂について書かれたものを見たことがない。戦火の中、私に死を受容れさせた魂の存在とその力への疑問は解消し、我が意を得た思いだった。以来、心の平安を保つことができ、自らを献じる行動となり、今日の私をつくったといえよう。

 

 

自靖自献 〈続〉

 

私はラバウルで死を受容した。それは、比島マバラカットで送り出した「特攻」に出撃する搭乗員も同様であった。晴れ晴れとして輝いているのは、明らかに死の受容を示していたと思える。

私の戦後の生活も、「魂の存在」に目覚めたことによって導かれたと確信している。その1つが、思いがけず頭に浮かんだ「油圧クレーン」の構想である。何日も考えた末でなく「ひらめき」であった。日本では誰も考えた人がいなかった。そこからスタートし、世界シェア29%を占める現在のグローバル企業になったのである。

さらに私生活では、44歳の時、元日の海での寒中水泳を思いついた。93歳まで49年間休まず続いたのには我ながら驚いている。心に鞭打ち歯を食いしばってできることではない。心の底から湧いてくる力であったことは間違いない。終わった後の清清しい気持ちは、自分を支配・統御できた自信と誇らしい気持ちを生んだ。それは、社会の中での企業の在り方などを模索する次への原動力となった。だが、なぜそのような力が人間に備わっているかは分かっていなかった。

釈然としない「魂の存在」について、先哲の書から思索を深めた。私たちの命は身体と心と魂から成り立っており、心と魂は別物であることを知った。心は、生まれた時にはなかった。2、3歳頃から言葉を覚え、その言葉をつないで話すと同時に考えるようになる。その積み重ねが私たちの理性をつくり、心の大部分を占めている。

私たちは、心を占める理性に従うことで十分社会生活を営むことができる。しかし、理性には人間にとって大事なことが抜けている。理性は言葉を組み合わせてつくられているので、言葉の持つ、合理的にしか考えられないという欠点を免れないのである。つまり合理的でないことについては、理性は盲目同然といえる。大自然が合理的でないのと同様に、その産物である人間にとって大事なことはすべて合理的ではない。愛するとか信じること、生き甲斐とか勇気・自由などは、言葉で表すことができないもので、すべて感じるものである。

私たちの命は天から授けられてこの世に生を受けている。それは同時に、命には、大自然の摂理、宇宙の意志である生成発展の思いがこもっている。つまり、天の意志だから魂が大きな力を生むといえる。

私たちに自己統制する良心の働きをさせ、自然治癒力で身体を保護するなどは魂の領域であると考える。しかしながら、多くの人は魂の力が発揮できていない。自らの理性がそれを妨げているのに気付いていないからではないか。理性からの雑念を捨てて無心になってこそ、大きな力を生む魂の出番となると考える。「自靖自献」の補足としたい。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2021年2月)より』

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