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航海日誌

「人間における運の研究」

2025/06/02

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

今回は、運の研究という課題である。運とは人知でははかり知れない身の上の成り行き・巡り合わせをいう。誰もが運に恵まれ、より良い人生を過ごしたいと願う。

運には「運が向く・運の尽き・運は天にあり・運を天に任せる」などの成句がある。多くの人は運や運命を「決められたもの」で生涯動かすことができないと解釈している。しかし、それらは天の配剤であると同時に、人間が受け取り、つくるものであると私は考えている。例え運が悪くても、それをどう受け止め、どう対処していくかで限りなく変えられるのである。

私の100年余の生涯を顧みたい。私を機械技術者の運命へと方向づけたのは、小学校を終えるころ、父から大阪の職工学校への進学を勧められたことに始まる。いつも慈愛のこもった眼で見守ってくれている父からの勧めは、深い考えの下にあったのだろう。競争率が8倍の府立学校だと知り入学を決めた。

次に卒業1年後、海軍に志願を決めたことであった。甲種機械科卒で海軍にて航空機整備に従事すると3年の兵役が1年で済む新しい制度が発表された。私は早く社会で実力を発揮したいと、昭和14年10月横須賀海軍航空隊に入隊した。19歳だった。海軍は殴って鍛えるところだと聞いていたが、入隊した横空練習部は聞きしに勝る猛訓練だった。3年かかる基礎訓練を1年で済ますのだから当然だった。訓練に際し、私たちの行動を見ていた教員から「動きが鈍い、気合が入っていない」と大声で叱正され、鉄拳の制裁が下る毎日だった。1年の基礎訓練が終わった時、鏡の中の自分を見て驚いた。見違えるほど顔つきが引き締まっており、逞しくなっていた。いかなる困苦欠乏にも耐えうる自信ができたように思った。運命は自分でつくるものだと感じ入った。

基礎訓練終了と同時に一旦予備役となって帰郷したが、翌16年10月召集令状により、矢田部航空隊に入隊した。2カ月後、私を待っていたかのように日米開戦となった。最前線で戦闘に参加したいと上司に申し出た。隊員では私独りだった。

戦場に向かう途中、船長の機転で開戦直後に海軍が占領したウェーク島に寄港してくれた。米軍捕虜が滑走路修復で運転する米国製の土木建設機械がすべて油圧で動いているのが、私には分かった。職工学校で学んだ基礎知識があり、既に日本の航空機の油圧機構を知っていたからだ。

その後、南の戦場での3年間は生死を分ける凄まじい日々であったが、生き抜いた。それは自力でなく、大いなるものに生かされていた。その体験から、自分が宇宙の意志を帯びた魂の存在であることに気付かされ、生涯を魂主導の生き方で歩むようになった。

戦後、父と弟の3人で、焼け跡に建てた24坪の小規模の機械修理工場を始めたことが、私の運命を決定づけた。国内の復興の機運と相まって仕事は増えていった。そうするうちに、天の配剤であろう開戦当初に見たウェーク島の光景が思い出された。「ダメ」でもいい、油圧を利用した荷役機械をつくろうと、寝食を忘れて取り組み、試作機を完成させた。これが今の我が社の礎となった。

私は持ち前の独立自尊の精神で、あえて安易ではない道を選んできた。振り返えると、人生には「幸運」や「不運」に見えるけれども、「人間万事塞翁が馬」の例えのように幸運の裏には災いの種が潜んでいるし、不運と思われる中に幸運の種が隠されている。例え悪い出来事であっても、その対処の仕方によって変えられ、新しくつくり得ると私は確信している。自らの生涯を振り返り思索すると、運は自ら招き受け取り、運命は自分がつくるものだといえる。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2025年4月)より』

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