
表題の「希望は失望に終わらず」は、何を意味しているのだろうか。希望というのは、一度か二度実現できなかったからといって、費えるものではない。奮起して何度も挑戦せよといっているのではないか。私の生涯を、この機会に振り返ってみたい。
希望の萌芽は、少年期に見て取れる。家で教科書を開いたことがないのに、小学校の成績が席次1番だった。私は恵まれた素質を与えられていたのだろう。幼いながらも、みんなと違っている良い面を伸ばし、自分の将来をつくっていこうと思った。
中学入学に父の勧めもあったが、競争率8倍に魅かれて、大阪の職工学校に入学を決めた。それが私の生涯にわたる仕事の発端となった。卒業すると間もなく徴兵検査があり、陸軍は2年・海軍は3年の義務があった。ちょうどその頃、海軍に1年間で済む志願制度を知り、徴兵1年前だったが志願した。早く社会で自分の力を試してみたかった。世間では「誰もが嫌がる軍隊に志願する馬鹿がいる」と囁かれていた。昭和14年10月横須賀海軍航空隊に入隊した。
海軍は「殴って教える」所だとは聞いていたが、聞きしに勝る猛烈を極めていた。通常3年間の教育訓練を1年で済ますのだから当然だと思って耐えた。そのおかげで培われた不屈不撓の心身は、私の生涯をつくる基盤になっている。
昭和16年10月、召集令状が来て谷田部航空隊に入隊した。2か月後、日米が開戦、すぐ第一線への配置を上司に申し出た。隊員では私一人だった。この決断が、その後の3年余、南の戦場で死の洗礼を受ける羽目になるとは、「お釈迦様でも気が付くまい」。しかしながら、戦場での壮絶な体験から得た多くのエッセンスが、戦後の生き方を貫く精神的支柱となった。
その一つは、かつて過ごした海軍入隊初期のきびきびした生活が懐かしく、その再現を希望した。まず、毎朝アラームなしの5時起床を課した。ところが思いがけない効果があった。一日中「気合いのこもった」充実した気持ちで過ごせるようになり、自分をコントロールできた喜びは、他のいかなる喜びより大きいことを知った。その喜びから、次々と厳しい課題に挑戦した。
20年ほど前には100歳を超える人は珍しく思えたが、今は多くの人が100歳を超え「人生100年時代」が常識になっている。知らないうちに常識は変化している。その時代遅れの常識からは、創造的行動は生れるはずがない。つまり、常識を外れた非常識から、独創的行動が生まれるというのである。戦後、元旦の寒中水泳を49年間93歳まで続ける等、自らに挑戦する非常識な行動が、現在103歳の長寿と健康をつくってくれたと感謝している。少年期に、皆と違っている良い面を伸ばし、将来をつくりたいと希望したことが原点だった。
自らの道に絶えず希望をもち、“弛まず”挑戦していくことによって、どのような挫折や絶望に置かれても、必ず希望の光が見えてくる。
『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2024年6月)より』