
「さらに前進」とは、何歳になっても修養を続けていくことが大事だ、という教えである。私が今までの生涯で大切にしてきたことを述べてみたい。それは「信頼」である。信頼関係が私の前進への土台をつくったといっても過言ではない。
信頼は、誰もが望んでいる人間関係であるが、その信頼関係はどうしたらつくれるかを分かっている人は少ない。それを分からなくしているのは、信頼が目に見えない心と心を結び付けることによるからである。しかも、私たちは理性で物事を考え、五官でキャッチできないものは認めようとしないことにもある。信頼とは、掴まえ所のない心と心を、どうすれば結び付けられるかである。
例えば、相手の前で「私はあなたを信じます」といくら叫んでも、信頼を生むには何の役にも立たない。また、いくら条理を尽くした言葉や熱意を披歴しても、どんなに詳細な制約書面を取り交わしても、信頼をつくり出すことはできない。そこで、人を信じるとはどういうことか、私の考えを四つの定義に表してみた。
(1) 無私の定義:信じた相手からいかなる報いがあろうと、受け容れる腹が決まったとき。
言い換えると、自分の身を相手に委ねてしまうことである。
(2) 往復の定義:信頼はこちらが信じた大きさだけ、相手からも信じてもらえる。
(3) 即応の定義:人間は信じられたら、それに応えずにおれない。
(4) 心眼の定義:目に見えない心を信じることができれば、相手の心が見えてくる。
このように、信頼は言うは易いが、真の意味が分かると非常に恐ろしいことが分かる。なぜなら、信じた相手からたとえどんなに傷つけられようと、不条理な結果を強いられようと、甘んじて受ける覚悟が必要だからだ。信じた相手の前には無防備であること、つまり、自分の運命を相手に委ねてしまわない限り強力な信頼関係は生まれない。こうした命懸けの行為だからこそ、信じるという奇跡が生まれるのである。
しかしながら、私たちは生まれつき防衛本能を持っており、常に傷つくまい、失うまいと無意識で自分を守っている。この自衛意識が、実は信頼の大きな妨げになっていることに気づかねばならない。したがって、自己防衛に心を惹かれている間は信頼が生まれることはない。つまり、こちらが捨て身になることによって、相手を尊重する気になり、信頼するにいたるのである。信じることは愛すること、許すことであり、愛のないところに信頼は生まれない。
そうは言うものの、自分を少しも守ろうとせず、自分の運命を相手に委ねてしまう消極的な態度では、この競争社会で生き残れるのかと不安になるだろう。私は、全く反対である。捨て身になり、無抵抗、無防備になれるのは、余程の信念を持った強い人でなければできないことである。だからこそ、信頼関係が私たちに予想できない大きな力を生みだしてくれるのではないか。頭で考えている限り、信頼関係は生まれることはない。理性を超えた考えであってこそ、理屈では説明できない奇跡が生まれるのである。
私がこんにちあるのは、戦後の行動が捨て身になっていたことが、他からの信頼と協力を生んだのである。かつて南の戦場で3年余、捨て身の戦法で毎日を過ごしたことが大いに役立っている。逆境が私を強くし、多くの人を信頼したことが前進への土台になっている。逆境が人間をつくるというのは本当だ。間もなく104歳、さらに前進していきたい。
『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2024年8月)より』