
「命を見つめて生きる」とは、かつて私が過ごした、3年間の戦場における生き様そのものと言ってよいだろう。数え切れぬほど死ぬ目に遭ったエピソードは、幾度か記した。さらに詳しく述べてみたい。
その戦場とは、太平洋戦争で日米両国が最も激しく戦った、ラバウル・サイパン島・ペリリュー島・フィリピン島である。その3年間に戦った日本の将兵は、おそらく何十万人もいただろうが、今、生き残っているのは、104歳の私ひとりではないだろうか。それゆえ、今回のテーマに真剣に取り組んでみた。この四戦場では、毎日が命を見つめて生きていた日々だった。特に命の最期を覚悟した三つの出来事について記す。それは、80年後の今でも昨日の事のように脳裏に焼き付いている。
最初に赴任したラバウル基地には、毎日100機に余る戦爆連合の空襲があった。滑走路に面した指揮所から打ち上げる花火でその勢力を知らされた。満を持していた我が3戦闘機隊200機余のゼロ戦が一斉に飛び上がり、迎撃・撃退していた。その壮烈な戦いぶりに私は心を奪われ、戦いに参加しているのを誇りにすら感じていた。
しかし、邀撃のたびに米機撃墜の戦果はあったものの、我が方にも同程度の未帰還機を出していた。さらに、ボーイングB-24爆撃機が落とす1トン爆弾によって、土盛りの防空壕にいた私たち地上員にも死傷者が出た。空襲後、担架上の変り果てた彼らを見送ったが、なぜか悲しむ気になれなかった。明日は我が身かもしれないと命の儚さを改めて思い知った。
連日、尊い人員・機材が失われていったが、その補給は思うようにならなかった。それに比し米軍はむしろ機数を増してさえいた。日を経るに従い、彼我の戦力差は次第に広がっていった。私たち地上員の死もそう遠い先のことではないと、一下士官の私にも感じられた。
命の最期を覚悟した一つ目の出来事。やがて、我が201航空隊は全員サイパン基地へ後退が決まった。地上員250名余は2隻の貨物船にて移動である。これはえらいことになったぞと思った。当時ラバウルは、制空・制海権とも米軍の手中にあり、出て行く船はすべて沈められていた。出航の前夜、私は沈むのが分かっている船に乗っていかねばならない。沈むのが気になって眠れない。乗船の時刻は刻々迫っている。東が白む頃になって、ようやく妙案が浮かんだ。それは、沈没後いざという時、水中深く潜っていくことである。ある深度を超えると、水圧のため失神する。海水を飲んでの受け身の死ではなく、積極的な死に方だと思った。途端に安心し、ストンと眠ってしまった。翌日、船は予定通り出航したが、昼過ぎ、B-24爆撃機一機が飛来、鳥が糞をするように爆弾投下してきた。
貨物船の甲板は平たくて、退避場所はどこにも見当たらない。どこにいても死ぬときは死ぬと度胸を決めて甲板上に突っ立ち、弾の行方を睨みつけていた。あたるかなぁと見ていると、並行していた僚船羽黒丸が直撃を受け、舳先を上にして沈んでいった。我が海川丸は、至近弾による海水を浴びただけだった。
運よく今日は難を免れたが、明日は必ずやられるぞと気を引き締めて待った。案の定、同じ頃、見張り員の「雷跡!」という大声と同時に、私は甲板上にたたきつけられた。魚雷だ!急ぎ身体をなでて見たが、どこも傷はなかった。だがすぐに、2発目の魚雷必至とみた私は何も考えず、舷側に走り寄って海に飛込んだ。行くも死、留まるも死だった。
船は機関が無事だったのかみるみる遠ざかっていった。太平洋の波は大きかった。頂上に来た時だけ周囲を見回した。去っていく船の航跡に連なって浮いている、兵士2、30名が見えた。私と同じくダイブした連中だったが、皆無言だ。たとえ言葉を交わし共鳴しても、死ぬのはひとりなのを知っている。今でも私が長時間孤独でいても平気なのは、この時のおかげである。その根性が独立自尊の考えにもなっている。
うねりの波に揺られながら、さて、これからどうするか。死ぬのはまだ早過ぎる。潜る力を温存しながら浮いていようと決めた。おそらく一昼夜は持つまいが、余力を確かめた後、決行することにした。漂流しながら、思い出が次々と走馬灯のように頭の中を巡っていった。溺死でも戦死と扱ってくれるだろうか。戦死と聞いて、父は褒めてくれるだろうか。母は悲しむだろうかなどが浮かんできた。何時間漂流していただろうか、ふと見ると、日本の駆逐艦がカッターを降ろして救助しているのが見えた。やれやれ、死なずに済んだと安心した。
駆逐艦に収容されサイパン島に向かったが、私にとって忘れられない日となった。それは、救助された中に、ひざ関節を撃ち抜かれた重傷の若い兵士がいた。他の12.3名の同僚が彼を介護しながら「サイパンには海軍病院がある。がんばれ」と励ましていた。皆が軍歌を歌い出すと、彼も同調して歌い出した。
しかし、皆疲れていた。軍歌の勢いは次第に衰え、いつしか眠っていた。ふと見ると、彼は既に事切れていた。私は胸がいっぱいになった。私より2、3歳若い兵士は、死に瀕する重傷を負いながら、死ぬまで「痛い!」と一言も言わずに死んだのである。以来私は、いかなる苦痛があろうとも「苦しい、痛い」は絶対に言うまいと肝に銘じた。
命の最期を覚悟した二つ目の出来事。サイパン基地にいた私に、突然出動を命じられた。2月18・19日、米機動部隊に急襲され全滅したトラック諸島の救援に、翌20日、我が201空全機の出動となった。私は部下数名と1式陸攻で行くことになった。こういう時に、最初に選ばれるのは「行き足」のある私だ。しかしこれは、えらいことになったぞと思った。
トラック諸島全滅の翌日である。米機動部隊がまだ近くにいるかもしれない。もし米機と遭遇すれば、私が乗った鈍足の1式陸攻は、真っ先に餌食にされるのが目に見えていた。良い死に場所を与えてくれたと、勇躍、機前部の7.7ミリ機銃座席に陣取った。グラマン機と打ち合って死ねるのは本望だと覚悟した。
機はトラック諸島近くまで来たが、米機はいなかった。着陸予定の竹島は、見ると滑走路が穴だらけだ。上空で旋回している間に大勢が土で埋めてくれ、着陸した。ところがサイパンが今、米機の一方的攻撃を受けているという。なんと我が戦闘機隊と入れ違いになったのだ。数日後サイパン基地に帰着すると「お前はなんと運のいいやつだ」と同僚から羨ましがられた。サイパン基地に戻り守備に就いていた我が隊は、急遽、空母「千代田」でペリリュー島へ移動することになった。
三つ目の出来事。ペリリュー島では、3月30日、米機動部隊が来襲、我が戦闘機隊は邀撃したが全機未帰還になった。戦死(基地隊員含む)246名、ゼロ戦32機を失う。夕方、グアム、サイパンの両基地から応援に来た52機も、翌日、全機南溟に散った。夜、総員集合がかかり、中野司令中佐が壇上から「防衛力を失ったこの島は、米軍の敵前上陸の公算大である。我が隊は最後の一兵まで戦う、全員奮励努力せよ」と宣言された。
予想してはいたが、いよいよその時が来たなと思った。これまで度々、死を自分に宣告してきたが、その都度免れていた。今度ばかりはそうはいかず、上陸して来る米軍と戦っての戦死だ、もってめいすべしである。それにしても、これまでよく戦ってきたものだ。もう年貢を納めてもよいではないかと思った。そこで、戦闘機に搭載する小型爆弾を上陸が予想される海浜に埋めて待った。夜明け前がその適時だ。目を皿にして見張っていたが、何も見えず、寄せ来る細波の音しかなかった。
不思議に思っていたら、サイパンが今、米機動部隊に急襲されているとの知らせである。米軍にとってペリリュー島は、もういつでも無血占領できるとみて無視したのである。またもや私は戦死の予定が外れた。しかし、両島は日を経ずして敵前上陸され、玉砕した。
だが、その玉砕した中に私がいないのを不思議に思うだろう。そのわけは、4月7日、ペリリュー島にいた私に、失ったゼロ戦補給のため内地出張を命ぜられたのである。近くのパラオにいた2式大艇に便乗、8時間後「日本に着いたぞ」の声に下を見ると、房総半島の上空である。
見ると西岸には桜が咲いているではないか。突然涙が込み上げてきた。生きて二度と見ることはないと思っていた祖国を見て、滂沱の涙したのだった。横浜に着水し、中島飛行機製作所でゼロ戦32機を受領、沖縄・台湾経由、フィリピン・セブ基地に空輸の大任を果たした。
私が内地へ出張した後、ペリリュー島の我が隊全員は、大型客船ジョクジャ丸でセブ島へ向かった。途中、魚雷を受けて沈没し、生き残った者だけがセブ基地に着いたという。私は内地への出張のおかげで、再び潜る難を免れた。やはり私は運がよかった。同時にそれは魂の導きであったことを認めずにはいられない。
戦場の3年間は、極限の中で命を見つめて生きたと言える。その中で一番大きな収穫は、自分が魂の存在であるのを知ったことである。以来、私の考え方・生き方が、魂主導に一変した。言い変えると、苦しみが大きいほど乗り越えた喜びが大であることを悟り、克己の生活が始まったのである。
戦後、生かされた命に感謝し、困難に立ち向かった克己の日々は、私をこの上ない幸せ者にしてくれた。その天恩に感謝してやまない。
『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2024年11月)より』