
このテーマを見て思い出したのは、司馬遼太郎の「振り返ってみると、私の一生はすべてプラスだった」という言葉である。我が身に起こるすべての出来事には、無駄なことは一つもない。自分に必要だから与えられたのだと述懐している。たとえ好ましくない出来事であっても受け容れ、修養としプラスにできたという。
私は修養とは、不撓不屈の精神と人格をつくることだと考えている。不撓不屈といっても、世の中には「私は意志が強い」と自覚できる人は少なくて、「なんて私は意志が弱いのだろう」と自省している人の方が多いように思われる。私たちは何か良い習慣を身に付けたい、あるいは悪い習慣を止めたい、と相当な決心をして取り組んでも三日坊主になってしまうことが多い。それを何とかしようと自分に鞭打つのだがうまくいかない。
これは、肉体を鍛えるのと同様に、弱い意志力を叩いて鍛えればもっと強くなれると思うところに大きな錯誤があるように思う。なぜかといえば、肉体があるように意志という形のものがあるわけではないからだ。肉体を鍛えるように、弱い意志を鞭打ち鍛えることは本来できない相談である。
問題は「意志や意欲」が自分のどこから出ているかに関係しているように思う。つまり、どこから出ているかによって「三日坊主になるか、やり通すか」の分かれ道となる。それを意志が「弱い、強い」と言っているだけである。意志の出る場所は二つあって、「心」から出る意志は弱く、「魂」から出る意志は強いといえる。ところが、私たちは自分が意識できる心というものが精神作用の全てと思い込んでいて、魂というものの存在をアタマから否定してしまっている。心と魂は別物なのである。
なぜ、心から出る意志が弱く、魂から出る意志は強いのか。心から出る意志が弱いのは、それを強くしようと意図してつくった急ごしらえの意志といえる。魂から発する意志が強いのは、魂は生命と共に宇宙の意志と繋がっているからだ。私は戦場で幾度も自分に死を受け容れさせた体験から、魂の偉大な力を知っている。
魂の存在を知ったのは23歳の時だった。南の戦場ラバウルでの連日の戦闘で疲れて眠っていた深夜、ふと目が覚めた。心の奥から「びくびくせずに潔く死ね」という声が聞こえてきた。「そうだ!自分の命は、国や家族の平安に捧げたものだ、いずれ死ぬなら前から撃たれて死のう」とすんなり死を決めた。
それ以来、雨降る弾丸の中を平気で動き回れるようになった。自らの変わりように驚いた。その事実が、私の一生を決定づけた「自分が魂の存在である」のを知る決定的瞬間だった。同時に、魂は宇宙の意志を戴して生命と共にこの世に生を受けていたのだと直観した。
私の戦後80年が魂主導の生き方になったのは当然である。たとえ好ましくない出来事であっても、真正面から受け容れ、あえて厳しいことを自分に課してきた。その一例は、元日の朝、海での寒中水泳を44歳から93歳まで49年間、一度も休まず続けたことである。これは私の意志が強かったからではなく魂の力だった。
戦後読書する中でそれを裏付ける文言が見つかった。一つは文豪レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ著『人生の道』に、「魂は肉体に宿り、心と身体を統御・支配する」と明言している。二つ目の書は、ソクラテスの高弟プラトン著『ソクラテスの弁明』である。ソクラテスは紀元前450年頃、「魂を養い、徳を高めよ」とアテネ市民に説いて回っていた。その頃日本は縄文時代の竪穴式住居で誰もが食べることに一日を費やしていた。それに比しギリシャは既に、魂や徳を理解する精神文化が築かれていた。私の魂の見解が正しかったのを知って自信を深めた。
三つ目の書は、ヴィクトール・エミール・フランクルの『夜と霧』である。オーストリアの精神心理学者だったユダヤ人の彼は、ドイツのナチスに捕えられアウシュビッツ収容所に容れられた。彼は、収容所で人間の意外な行動を目撃した。名前を呼ばれ、国歌を高らかに歌いながらガス室に入っていく者や、若者の身代わりになっていく老人もいた。支給の黒パンを病人の枕元にそっと置いて作業に出て行く者もいた。
これらを見たフランクルは,このような崇高な精神は人間のどこから出ているのかを考えた。そして戦後、収容所の経験を記した書『夜と霧』に「あの崇高な出来事は、人間の超越的無意識のなせる業であり、日本で言い習わしている魂である」と述べている。
いずれにしても、私の魂主導の生き方は戦後の一生をプラスにしてくれた。元日の寒中水泳一つをとっても、あの冷たさはマイナスだが、やり終えた後はプラスに代わっている。同様に、たとえ好ましくない出来事であってもプラスに捉え、克己の生き方を万事修養とした。私の経験が皆のプラスになれば幸いである。
『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2025年1月)より』