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Vol.276 「2050年の日本を考える」

2025/05/15

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

今回の表題は、私の到底及ばない大問題のようである。代わりに最近気になっていることを述べて、責めを果たしたい。

誰が言ったのか憶えていないが、「常識で考える」のではなく「常識を考えよ」という言葉が長らく気になっていた。「で」と「を」の違いだけなのだが、なぜ常識で考えてはいけないのだろうか。私たちの日常生活を振り返ってみても、ほとんど常識に従って行動しているように思う。しかしそういえば、何か問題がありそうな気がする。

常識というのは誰もが知るとおり、時を経ると変っていくものだといわれている。つい最近まで、百歳を超える人が珍しかったが、今は多くの人が百歳を超えられるようになった。世界的事典『エンサイクロペディア』は、100年後の内容は80%変わっていると発表している。常識で考えていては時代遅れになると言える。

なぜ常識で考えてはいけないのだろうか。それは、かつて私がとった常識を外れた行動が思わぬ良い結果をもたらしたからだ。私が20歳の徴兵時、すでにその行動が始まっていた。当時は、兵役の義務を嫌がる風潮が常識であった。巷では「誰も嫌がる軍隊に志願する馬鹿がいる」と言われていた。私は、早く兵役を済ませ社会で力を発揮したいと、海軍に志願した。

しかし、義務年限が多い海軍志願のわけは、誠に幼稚・単純だった。陸軍は、行軍が主で服装も野暮ったいが、海軍はなんと言ってもスマートで、さらに私は海が好きだったからだ。昭和14年10月横須賀海軍航空隊に入隊した。

海軍は殴って教える所だと聞いていたが、その鍛え方は予期した以上に強烈だった。普通3年の兵役を1年で済ますのだからその凄さは当然だったが、私はむしろ進んでその鍛え方を受け容れていた。すると、いつの間にか鉄拳の痛さを気にしなくなった。1年後、自分が心身共に見違えるほど逞しくなった姿に、驚いたことを昨日の出来事のように覚えている。

兵役を終え予備役退隊したが、翌年10月、召集令状がきて、矢田部航空隊に入隊した。私を待っていたかのように2カ月後の12月8日、日米開戦になった。私はすぐに、皆が嫌がる最前線に派遣を申し出たが、私一人だった。行く先はニューギニアの東、ニューブリテン島・ラバウルと知らされた。徴用の貨物船に便乗して日本を出発した。途中、船長の機転で、開戦直後に海軍が占領したウェーク島に寄港してくれた。天の配剤だろうか、この時に見た光景が、戦後私の生涯の仕事のもとになったのである。お釈迦様でもご存知ないだろう。

赤く日焼けした半裸の米軍捕虜たちが、飛行場滑走路の修復をしていた。見たことがない数台の土木機械を運転していたが、すべて油圧機構であるのが整備兵の私にはすぐ分かった。終戦後、復員し、親子3人で機械修理業を始めた時、かつて見たウェーク島の光景が思い出された。あの油圧を利用してクレーンをつくるという発想が生まれたのである。23歳だった。

乏しい知識と技術しかなかったが、「ダメもと」でやってみようと寝食を忘れて取り組み、何日間かをかけて試作機をつくり上げた。その構造は単純な油圧機構の吊り上げ装置だったが、2トンの能力があった。早速、東京の日通本社に持ち込んで運転して見せた。幹部の方々は驚き、これは役に立つ、数カ所を改善すれば全支店で採用できるだろうと言われた。

やがて、日通本社から多くの発注があり、全国に配備されていった。それを見た他の荷役業者からの注文も加わり、その量は級数的に増えていった。急激な需要の増大に備えて、会社の規模を拡大せねばならなかった。昭和41年、現在地に約4千5百坪の用地を購入したが、用地の中をJRの高徳線が通っていた。線路で中断された用地は隣接はしていても、長い迂回道路を通じてしか利用できなかった。

私は、常識では考えられない奇抜なことを思いついた。線路の下に隧道をつくれば、分割されている土地が一体として有効利用できると考えた。私は南の戦場で3年間戦い抜いた自信があった。怯むことなく局長と面会し、高徳線の下に自動車専用の隧道をつくらせてもらえないかと真剣に頼んでみた。一週間後、朗報を得た。設計・施工はJRが行い、費用の全額を我社負担という条件で許可された。私の常識を外れた考えが功を奏した。

このような例からも、常識では新しい発想や創造的な考えは生れないことを学んだ。元日の寒中水泳を49年間休まずに続けたのも、104歳になってなおこのエッセイを書いている事実にも表れている。2050年の日本がどう変わるか、常識を金科玉条にして「常識で考える」のではなく、「常識を考えよ」と申し上げて表題の責を果たしたい。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2025年2月)より』

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