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Vol.187 師と弟子

2017/10/02

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

「我以外皆我師」は吉川英治の名言である。自分以外の人すべてを師であると崇め、我が身を終生の弟子とした心得は、学びの要諦を見事に示している。平成11年4月の「先師先人に学ぶ」で、師からの学びについて私の考えを述べた。師と弟子間の学びで一番大切なことは、自分の愚かさに気付くことである。その気付きによって謙虚さが生まれ、学ぶ基本の姿勢がつくられる。

自分の愚かさとはどういうことなのか。私たちが学ぶのは、理性を通じて行っている。私の言う愚かさとは、その理性の不完全性に気付いていないことである。では理性がどうして不完全だと言えるのか。

今の世の中は、合理性は正しく、合理的なことは良いことだと多くの人は思っている。今私たちが享受している便利な生活様式や近代文明は、人々の理性の集積によって築かれたものである。しかし、残念ながら物事の本質は合理的ではなく、人間そのものが合理的にできていない。

私たちが求めている、愛も自由も、幸福も生き甲斐も、すべて理性に属していない。つまり、考えてつくるものでなく、感じるものである。たとえば、幸福は、「幸福だなぁ」と感じたときが幸福なのであって、理性的に考えてつくり出されるものではない。どんな豪邸に住んでいても、「私はなんて不幸なんだろう」と思えば幸福ではあり得ない。

人生において人間が「価値あるもの」と思っているものの大半は、言葉に表すことができず、すべて感じるものである。最も大事な「愛」も、理性で考え言葉で表すことができない。たとえば「あなたを愛している」と、いくら口説いても、何の役にも立たない。「愛」は感じるものである。このように、言葉は有限で不完全であり、その言葉を基にしてつくられた理性は、欠陥を含んでいる。

理性が不完全である主たる要因は、自分自身がつくったもので、合理的にしか考えることができないことにある。理性は生まれた時にはなかった。2~3歳ごろから言葉を覚え、言葉を組み合わせることで考えはじめ、それらを基にしてつくったのが私たちの理性である(自我ともいう)。だから、言葉で表せないことについては盲目同然であり、その欠陥ある言葉でつくった理性は、不完全であるのを免れない。

さらに、問題なのは、理性の正しさを主張し過ぎることである。私たちには、「理性的に考えて正しいと思ったことは、どこまでも主張するのがいい」という理性に対する妄信がある。だから、こんにちも各所で対立が絶えず、テロや部族間の争い、戦争、殺し合いで、世界中の人が苦しんでいる。そのような悲劇的な問題や事件の殆どは、理性的に正しさを主張し過ぎることが原因となっている。

感性こそが人間の本質である。原理にしなければならないのは、理性ではなく、自分の感性である。理性をそのための手段・道具として使うとき、理性は私たちにとって、必要不可欠の存在となる。学びの基本は、自分の愚かさをわきまえた謙虚な心であると述べたが、私自身がどれほど謙虚になれたかを省みて、思わず恥じるばかりである。

不完全性の自覚から滲みでてくる謙虚ほど大事なものはない。なぜならば、それは知識ではなく、感じることだからである。たとえどんな美人であっても、傲慢(ごうまん)な美人は、もはや人間的な美しさを感じられなくなるからだ。謙虚さは表面的には見えないが、人間の中で培われ、鍛えられた魂、磨かれた心が謙虚さを感じさせるのである。

謙虚さを生むには、眼が内に向いていなければならない。普通、人間は外に眼が向いているが、眼を内に向けることによって、自分に対して厳しくしたり、内省したりすることができる。それは、苦労とか、忍耐、努力の体験による、外からの否定的な力が加わった時とき、初めて自分自身の内面を見つめ、内省する契機となるからだ。そうした内省の積み重ねによって、自らの不完全性を自覚し、滲み出るような謙虚さを培うことができる。

「師と弟子」の基本は、理性の不完全性を自覚することにある。そこから滲み出てくる謙虚な心によって、すべての人や物、生きとし生けるものから真剣に学ぶ気持ちが生まれる。それが、他との調和と共生の道を開く端緒となって、私たちの成長・進歩は計り知れないものとなる。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2017年7月)より』

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