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Vol.189 閃き

2017/12/01

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

閃き(ひらめき)とは、瞬間的にある考えが脳裏に浮かぶことであり、「気づき」とも呼ばれている。「気づき」によって、世に役立つモノやコトをつくり出すのは「創造」であり、先月のテーマ「維新する」にも取り上げられている。閃き、すなわち「気づき」については、平成16年2月、語録「気づきが人生を変える」にも述べた。その「ひらめき」や「気づき」はどのようなときに生まれてくるのだろうか。

私たちは、「こうしたい」という思いがあると、それに向かって「こうしてみよう」と試行錯誤を始める。試行錯誤の果てに、もうダメだと諦めかけたとき、突然、ふっと「こうすればいいのではないか」というアイデアが浮かんでくることがある。これは不思議といえるが、今まで考え続けてきたことと何のつながりもない新しい考えが無意識の中から浮かび上がってくる。それは「考えつく」のではなく、「気づき」によって得られたのであって、この「気づき」こそが「ひらめき」と呼ばれるものである。

したがって、「創造」ということの核心には、「気づく」という心の働きがあり、そのハイライトが「ひらめき」といえる。「ひらめき」は神秘的でもなく、偶然的に現れるものでもない。その例として特筆したいのは、現在のわが社の発展の原動力となっている「油圧式トラッククレーン」は、戦後の混乱期に「ひらめき」から生み出され、多くの社員の「ひらめき」によって現在の盛況をつくり出したといってよいだろう。故に、「ひらめき」は私たちにとって絶大な力を与えてくれる天の配剤といえる。

では、「ひらめき」やすい環境はどうすればつくり出せるのだろうか。「ひらめき」を妨げる誤解の一つは、ある種の天才や発明家、科学者、芸術家といった特殊な人たちの特権だという思い込みである。次に多い誤解は、「ひらめく」ためには考えることを脳に強制し、無理やりひねり出す必要があると思っていることである。しかし、実際に「ひらめき」やすい環境は、脳の抑制とは全く反対の、脳がリラックスできる状態である。極言すると、「ひらめき」は脳に対する抑制を外しさえすれば、ひとりでに起こってくるものだといえる。

「ひらめき」やすい環境というのは、いかにリラックスした状態をつくり出すかである。リラックスできる環境とは、言い換えると退屈な時間であり、退屈な場でもある。その「退屈という空白」を補おうとして、何かを自発的につくり出そうとするから「ひらめく」のである。しかし、ただぼんやりしているだけで「ひらめき」は起こるわけがない。充実した脳の抑制が続いた後の退屈でなければならない。過去に私が「ひらめいた」瞬間というのは、いずれも、自らの計らいを捨て、無心になり、わが身を何かに委ねて、脳に対する抑制を無くした状態であった。

私にとって、戦場で得た「ひらめき」は、何にも代え難い貴重なものとなっている。ラバウル、サイパン、ペリリュー、フィリピンでの3年にわたる戦場は、目前に迫る死を前にした毎日だった。初めのうちは、なんとしても生きて戦い続けようと真剣に考えていたが、どう考えても近いうちに死は免れないのが目に見えてきた。それなら、びくびくせずに潔くこの世とお別れしようと腹に決めた。そのとき、「祖国のため、一命を捧げるのは男子の本懐である。おまえは、その素晴らしい行為を成し遂げようとしている」という「ひらめき」があった。

途端に勇気が湧いてきて、弾降る中を平気で駆け巡るようになった。最初は、生きて戦う考えで頭が一杯だったが、「もういつ死んでもいい」と我が命を運命に委ねたことで、脳に対する抑制が無くなり、空白が吸引力となって「ひらめき」を生んだといえる。脳は抑制が強いほど、空白になったときの「ひらめき」も強烈になるようだ。

平和な時代にあっても、脳が空白のときの方が「ひらめき」やすい。例えば、普段歩き慣れた道を、リラックスして歩いているとき「ひらめき」が多いのを見ても分かる。また、心地よく眠りに入る前も、電車に乗っている間も、計らいが無くて、無心になって身を委ねることができて、「ひらめき」やすいといえる。

昨今、間もなく97歳を迎える私に「ひらめき」があった。70数年前、南方の戦場で、「どう考えても死は免れないし、近い内にそれは訪れるだろう」と密かに感じていた。それはまさしく、死期の近い今の私と全く同じように「気づき」、目が覚める思いをした。と同時に、体中に熱い血潮が漲(みなぎ)るのを覚えた。「死の瞬間」の著者、エリザベス・キューブラー・ロスが、「死は成長の最終段階である」と述べている。「閃き」を通してこれからも、成長を続けたいと考えるこのごろである。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2017年9月)より』

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