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Vol.190 自反尽己

2018/01/04

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

自反尽己(じはんじんこ)とは、自分を省みて、持てる資質を存分に生かすこととある。自分を省みよというが、ソクラテスの言葉に「汝自身を知れ」とあるように、最も分かってないのが自分自身のことである。自反尽己は、自分が具備する資質を知り、どう生かすかを問うている。

まず、自分を知らなければ、自分の資質を知り、存分に生かすことはできない。私たちは、心と身体と魂で構成されているが、自分自身を知るには、この三つが明確でなければならない。心はどのようにしてつくられるのか、心と魂はどう違うのか。身体とどんな関係にあるのか、これらがどうつながっているのだろうか。私の考えを述べてみたい。

心は、どのようにしてつくられているのだろうか。心は、精神とも呼ばれているが、生まれた時には無かった。2、3歳ごろから言葉を覚え、その言葉を通して認識、思考、記憶、欲求の働きをする理性をつくり上げている。故にその働きは論理的であるため、科学的、合理的にしか考えられない弱点を持っており、自我(エゴ)ともいわれている。したがって、言葉に表せない事柄については盲目に等しいといえる。しかも、人間にとって大事なことは言葉にならないことが多く、強いて言葉にすると真実と異なってしまう。

その理性は、自分が長年月かけてつくったものだから、それを金科玉条(きんかぎょくじょう)にしている人が多い。理性に従っておれば、普通の社会生活を営むことはできるが、反面、自我(エゴ)に振り回される結果になる。理性は自作したものだから、その存在を客観視できる(話しながら、自分が嘘をついているのを知っている)。

次に、心と魂はどう違うのだろうか。心は考えを言葉にするが、魂は「ひらめき」や直感をつくる。心の働きは理性に基づいて、「善いことをしなければならない、悪いことをしてはならない」という、他律的、強制的な「道徳」を求める。だが、魂は「善いことをしたいからする、悪いことをしたくないからしない」という、自律、自制を伴う「倫理」を求めており、そこには自由がある。これが大きな違いである。

心は、自分がつくったものだから、強力でしぶといが、自我(エゴ)を持っているため、有利な方へコロコロ変わる弱さを持っている。それに反し、魂は、大自然(大いなるもの)の意志によって、この世に生を与えられた命(いのち)に含まれており、その意志を呈している。故に、心と身体を統御する絶大な力を持っている。「健全なる精神が健全なる身体をつくる」といわれるが、「健全なる精神」の意味するのは、魂を指している。

途端に勇気が湧いてきて、弾降る中を平気で駆け巡るようになった。最初は、生きて戦う考えで頭が一杯だったが、「もういつ死んでもいい」と我が命を運命に委ねたことで、脳に対する抑制が無くなり、空白が吸引力となって「ひらめき」を生んだといえる。脳は抑制が強いほど、空白になったときの「ひらめき」も強烈になるようだ。

心は、自我(エゴ)とも呼ばれ、自分を守ることしか念頭にない。本能の赴くままに恋はできるが、愛する、信じることができない。なぜなら、恋と愛は似ているようだが全く違う。恋は努力しなくても自然に生まれるが、愛と信頼は努力して創り出すもので、その努力の源が魂なのである。そのために、自分の命(いのち)さえ捨てるのをいとわない真剣さが、愛と信頼を生む。恋は得ることしか考えないが、愛は与えることのみを考える。

魂は常に、自我心(エゴ)に覆われているので、「自我を捨てよ」とよく言われるが、とんでもない。自我は、魂の働きを表現するための有力な手段、道具であって、必要なものである。とはいえ、自我をそのまま放任してはならない。「私には自我(エゴ)がある」という自覚さえ持っていれば、自動制御(セルフコントロール)できるではないか。

しかし、昭和18年7月、次の任地ラバウルで、再び血便に見舞われた。毎日のようにやってくる空襲の迎撃戦に無我夢中で、受診すればまた隔離病舎に収容され、やせ細り死を待つだけと考えた。弾に当たって死ぬ方がどれほどよいかと、受診を思いとどまった。正露丸を飲みながら、連日の戦闘に駆けずり廻っていた。気がつくといつのまにか下血が消えていた。

自分を省みて、私の人生は魂に導かれたと思わずにはいられない。病舎での死より戦場での死を選んだのも、赤痢を自力で克服できたのも、幾度となく目前に迫る死を受容できたのも、その都度、魂の声に従ってきたからであろう。これら、自力では到底成し得ない凄いことを乗り越えてこられたのは、すべて魂の仕業だった。大いなる意志、魂の凄さを、身を持って体験し、理性で考えては知りえない、魂の存在を体得できた。

私は本当の自分は、身体でも心でもなく魂であると考える。身体は魂の容器であり、心は魂の道具として活用されている。すなわち、魂は身体を鍛え、心を入れ替えることができる。こうしたことを可能にするのは、魂の発意、本当の自分の発動によるとしか考えられない。したがって、魂の働きそのものこそが私の正体であり、自分の本当の姿である。私の魂ではなく、魂が私なのである。魂の存在に目覚め、自反尽己の生き方を目指したい。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2017年10月)より』

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