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Vol.196 「利他に生きる」

2018/07/02

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

昔から、親に孝、兄弟相和し、朋友相信じ、世のため人のために尽くす「利他に生きる」ことが、人の遵守すべき道として教えられてきた。だが、私たちにとって大事なことだと知っていても、その実行は生易しいことではない。もし利他に生きることができれば、たらいの法則「手前の水を相手に押しやれば、ひとりでに周りの水が自分に集まってくる」が示すように、人は必ず幸せになれる。

何が利他に生きるのを妨げているのだろうか。それは、人として守るべき道の教えが「・・べきである」「・・ねばならない」という、半ば強制的な感じを与えているからではないか。また人間には自利の本能(エゴ)があり、自分のことさえままならないのに、人のことなど構っちゃいられないという思いもある。ではどうすれば「利他に生きる」考えになれるのだろうか。

このしぶとい自利の本能(エゴ)を乗り越えて、利他の心境に変わるのは、一生のうちに遭遇する、困難の極み、生命の危機を克服したときしかないだろう。それは、生かされていることへの感謝と、生きる意味を深く思索する唯一の機会が与えられることに他ならない。私の体験を振り返ってみたい。

私は、1945年1月、最後の戦場となったフィリピン・マバラカット基地にいた。温存していたゼロ戦は、すべて特攻として出撃し、戦闘機が一機もいない状態に立ち至った。そのような中で、傷ついたゼロ戦を一機でも飛ばそうと夜通しで修理していた。そのとき、上官から呼び出され、「今夜0時、近くのクラーク基地出発のダグラスDCⅢ機で、茨城県の神之池航空基地へ行け」と告げられた。

一瞬、夢ではないかと思った。戦況から見ても、自分がフィリピンの土になるのは、そう遠いことではないと諦めていた矢先に、戦場から抜けだせるのは、天国への直行便に乗れるような思いであった。同時に、武器のない数百名の隊員を基地に残し、自分だけが帰国する、後ろめたい気持ちを拭えなかった。バシー海峡を越え、台湾・沖縄を経由し、二度と見ることは無いと諦めていた祖国日本に帰り着いた。

私はなんと運の強い人間かと思わずにはいられなかった。当時、フィリピンの我が空軍基地には毎日一機、双発の輸送機が日本から飛んで来ていたが、主として軍司令部の高級幹部が日本との往来に使用していた。その定員は僅か15名、帰国したい将兵が山ほどいたのに、私ごとき若い一介の下士官を便乗させてくれたのが、今も不思議に思えるのである。憶測だが、私の3年余の戦場における死に物狂いの働きを、上官が陰から見ていて、褒章として帰国を配慮してくれたとしか考えられない。

赴任した神之池航空基地は、世界戦史上でも稀な、ロケット推進の人間操縦爆弾「桜花」の部隊だった。宮崎基地から一式陸上攻撃機に抱かれた「桜花」の出撃を何度か見送ったが、鈍足のため、目標発見の前に母機もろとも撃墜され、多くの搭乗員と機材を失った。そのうち広島・長崎の原爆禍があり、続いて終戦となって復員、高松の我が家に辿り着いた。

瓦礫と化した我が家の前に立ったとき、あの南の戦場でとっくに死んでいるはずの自分が、焼け跡にこうして立っているのが不思議に思えた。今在る自分は生きているのではなく、生かされているのだという思いが私の心を貫いた。同時に、この生かされた命を役立たせねば相すまぬ気持ちが心底から湧き上がってきた。世のため人のために尽くすのが、生かされた恩に報いる唯一の道「利他に生きる」考えが、私の髄まで沁みこんだ。

その思いは私の一生の信条となり、戦後始めた小企業の経営にも反映し、目指す方向を示す「社是」とした。企業の目的は利益の追求ではなく、社会に貢献奉仕にあり、その貢献度に相応しい利益が社会から与えられる。故に、企業の目的は、社会的存在価値(有用性)あらしめるにあるとした。それが次第に会社の精神文化をつくり、風土となっている。その証拠に、社員の献血が増え総理大臣賞を受けるに至り、四国の片田舎にありながら、世界中を顧客として輸出するまでになっている。

企業が社会の公器であるように、私たち個人も社会の構成分子として、どれほど社会に役立っているかが、生きている意味や感謝に繋がっている。他のために尽くせるのは、自分の心が充実し、自信と余裕があることを示しており、それがさらに利他を齎(もたら)すという好循環をつくっている。どのような境遇にあろうと、「利他に生きる」ならば、私たちを幸せにせずにはいないだろう。人間100歳に近くなるとさまざまな経験を重ねるが、それがすべて精神的成長に繋がるから愉快である。「利他に生きる」ことは、自らに幸せを齎すと実感している。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2018年5月)より』

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