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Vol.200 「内発力」

2018/11/01

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

内発力とは、人間の内側から発生する力と考える。人間は「体」と「心」から成り、そのいずれにも内発力が備わっている。「体」には、体を動かす筋力や体を守る免疫力等があり、「心」は自分を良くしたい意思や意欲をつくる力を持っている。

しかし、内発力のうち、最も強力なのは、心の奥に存在する魂であろう。88月の語録「変革する」で私の戦争体験を通して述べたように、魂は、見ることも触れることもできず、言葉で表現しようがない。辞書によると魂とは、「肉体に宿って心と体の働きを司る」とあり、魂は私たちの心と体を支配・統御し、心は魂の有能な従者だという。

どうして、魂はそれほど大きな力を持っているのだろうか。私たち人間は動物や植物と同じように、大自然の生き物の一部として、この世に生を与えられている。その命に含まれている魂は、大自然の持つ生成発展の意志を帯びており、無限の可能性が与えられていると私は考える。どんな人間にもなれる自由があるからだ。

ロシアの文豪トルストイは「『魂』は我々の肉体に宿り、この肉体はつまり『魂』の棺桶のようなものだから、必ず崩壊する。我々の『魂』は、『魂』と『肉体』とを結びつけた『神』の意志によって『肉体』が崩壊するとき、『魂』は完全に開放され、大自然の生命に帰るのである」と述べている。つまり、私たちの肉体は魂の入れ物であって、死ねば消滅するが、魂は故郷の大自然に帰り、永遠に滅びないといい、さらに「生きることについて真剣に考えなかった人は『魂』が不滅であることを信じることができない」と断言している。

魂の働きが偉大なわけは、その働きには「いのち」が懸かっているからである。「いのち」を懸けるとは、そのために失っても悔いない、理屈抜きの行為だから強大なのである。人間にとって大事なことはすべて合理的でなく、愛することも、信じることも、理屈を超えており、人間そのものも合理的にできていない。愛していることを、言葉で説いても、何の役にも立たないが、魂の命懸けの行為によってのみそれは可能となる。

愛することや信じることが、なぜ魂によってしかできないのだろうか。普通、私たちが物事を処理するには、理性に基づいた、ギブ・アンド・テイクの考え方が主流になっている。しかもそれを、常識として何ら疑うことはない。人間にとって最も大事な、愛することや信じることは、その常識を外れており、魂によるギブ・アンド・ギブである。与えることのみ考え、報いを求めず、自分の運命を相手に委ねる命賭けの行為が奇跡を生む。

常識でしか物事を考えない人は、ギブ・アンド・ギブは損するだけの行為で、そのような弱みを持っていては、この厳しい競争世界を生きられないと考える。彼らは、愛すること信じることが、私たちにどんなに豊かな人間性を培ってくれるかを知らない。報いを考えずに与えることによって、自らの心の豊かさを覚え、感謝したい気持ちになる。心が豊かで強いから、与えることが喜びとなる。

内発力の中心となる魂には、死が当然の私を生かしてくれた恩に、報いねばならない使命感が含まれている。使命感は強い意志を生み、いかなる困難にも耐え得る力をつくっている。やむにやまれぬ、せずにはいられないのが魂の力である。同時にそれは、人として行う道である「倫理」であり、真実を求める哲学である。そこから、理屈を超えた、愛することや信じる道が見えてくる。

心がつくる内発力は、せねばならぬ、すべきであるという力であり、それは真理を唱える論語の道でもある。理屈にあっているので、人々は常識と考えている。心は常に自分を良くしたい意欲と意思をもっていて、理想を描き、計画や目標をつくる働きをする。こうした心の力が総合された内発力が、私たちの、豊かな人間性を育んでくれるのは間違いない。この世に大自然の生き物の一部として生を与えられた私たちは、内発力の基である心の奥に存在する魂の声に、耳を澄まそうではないか。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2018年9月)より』

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