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Vol.201 「人生の法則」

2018/12/03

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

人生に法則があるならば、大きく三つが考えられる。一つは、人生の始まりである出生をどうとらえるか、次に、自分の人生をどうつくりあげていくか、さらに、人生の終わりの死をどう迎えるかである。

人生の法則第一、自分がこの世に人間として生を受けたことの不思議さに気づかねばならない。私たちは普通、命は自分が持って生まれたと思っているが、そうではない。命が与えられたから生まれたのであって、両親が準備してくれたのは、命の容器である肉体である。では、この命は何によって与えられたのだろうか。私たちの命は、人知の及ばぬこの大自然の摂理、宇宙の意志によって与えられたとしか言いようがない。年寄りは「天から子を授かった」とも言ってきた。昔の人は大自然、宇宙、太陽などを「天」と言い、子供は授かりものとして拝んできた。

私たちの住むこの地球は、一定の周期で自転を繰り返しながら、太陽の周りを回っている。 朝には太陽が昇り、日光がふり注ぎ、雨を降らし、すべての生き物がその恩恵を受けている。つまり、私たちの生命は、人知を超えた宇宙の創造主ともいうべき、大自然の生成発展を司る宇宙の意志によって、命を与えられ、生かされているといえる。

元京都大学総長の平沢興博士が、ノーベル賞学者の湯川秀樹氏と対談中、「平沢さん、命って不思議なものですね。私は原子物理学で物質の不思議に驚いていますが、考えてみますと、命というものになるとさらに次元の高い不思議がありますね」と言われた。博士は湯川氏の思慮の深さに驚き、かつ感心するとともに、「生きるということは、平凡のようだが奇跡中の奇跡であって、全宇宙に人間の生命に匹敵するほどの霊妙不可思議な奇跡はないのではないかと思う」と述べている。すなわち、「人間の命というのは私たちの思議することが不可能な、人知を超えた存在だ」と言っている。

もし、私たちの命が大自然の摂理、宇宙の意志によって与えられ、しかも生かされていることを知るならば、おのずと、どう生きるべきかが浮かび上がってくる。与えられた命に含まれている資質天分を最大限に活かすことに他ならない。他に役立つこと、世のため人のために役立つことによってのみ活かされる。私は幸いにも青年期に、戦場で幾度も死に損なった体験から、自分が生かされている命であることを心底から信じることができた。

人生の法則第二、私たちの人生は、運命にどう対処するかで、大きく変わる。運命は、私たちの人知の及ばない宇宙の力が働いているのだが、もし運命が決まっていて変えられないものなら、私たちは運命に操られたロボットと少しも違わないことになる。しかし、私は、その運命の受け取り方、対応の仕方によって、いかようにも変えることができると考える。

運命には,良いことよりも悪いことが起こりがちで、良いことばかりの人生は存在しない。どんな運命もまず肯定することが先決で、それが自分に必要だったことのように受け入れるのである。そこから自由や主体性、創造性が生まれる。私は、青年期に過ごした過酷な戦場の体験から、運命をどう受け入れればよいかを身をもって体得することができた。あの辛くて悲しい惨めな思いは二度と味わいたくないが、運命とはそういう選択不可能な出来事である。

避けたいと思う運命ほど貴重な教訓を含んでおり、反対に好ましい運命には、得るよりも失うものが多いのも事実であろう。わが身に起こるすべての出来事には必ず意味が含まれており、無駄なものは一つもない。自分に必要だから与えられたのだと受け取るならば、人間として大きく成長できるのではないか。素晴らしい発展には必ず大きな苦しみを伴うものだが、それをしっかり引き受けることである。苦しみと楽しみは別のものではない。苦しみの中に楽しみの種が潜んでいる。

心がつくる内発力は、せねばならぬ、すべきであるという力であり、それは真理を唱える論語の道でもある。理屈にあっているので、人々は常識と考えている。心は常に自分を良くしたい意欲と意思をもっていて、理想を描き、計画や目標をつくる働きをする。こうした心の力が総合された内発力が、私たちの、豊かな人間性を育んでくれるのは間違いない。この世に大自然の生き物の一部として生を与えられた私たちは、内発力の基である心の奥に存在する魂の声に、耳を澄まそうではないか。

「俺は全部引き受けていくぞ」という気持ちになると、案外、問題は解決していくものである。人間は常に何らかの問題を抱えていて、成長しようとすれば必ず悩み苦しみにぶつかる。それが人生を生きることだと割り切れば、不運を喜んで引き受けることができる。我が身に起こることのすべてに、無駄なことは一つもないと受け取れるようになる。

人生法則の第三、死をどう迎えるかである。私は20歳を超えて3年余り南方の戦場で戦って、自分の命は与えられたものであることを実感し、死生観を手中にすることができた。当時の戦況から考えて、自分が生きて帰れる見込みは皆無だった。近いうちに命を無くすのなら、びくびくせずに潔くこの世と決別すべきだと、弾が飛び交う中を、駆けずり回った。

人間、命を捨ててかかるほど強いものはない。生命への執着が消え、もういつ死を迎えてもよいという心境に一変した。しかし、天の采配か、故国の土を踏むことができた。魂の抜け殻のように我が家の焼け跡に立ったときのことは、いまだにまぶたに焼きついている。

私たちは、自分の「持つもの」が自分の所有を離れたとき、初めて「そのもの」の本体を知ることができる。それ以来、この命は自分のものではなく、一時の預かりもので、いつでも返さねばならないものと心得ている。生命はもとより、今持っているものはすべて預かりものと思えるなら,これほど豊かな心境はない。無一物中無尽蔵(むいちもっちゅうむじんぞう)とはこのことだろう。

人間は皆、この世に生を受けた瞬間から死に向かって歩き続ける旅人である。「死」について学ぶことによって、同時に生きることの尊さをも発見できる。モンテニューは、「如何に死ぬかを教えられる人は、いかに生きるかを教えられる」と指摘している。死は、どれほど早い時期から直視しても早すぎることはない。人間が時間的に制限されているという事実が、一日一日を有意義に過ごすように促している。

世界中でベストセラーになった「死ぬ瞬間」の著者、E・キューブラー・ロスは、「私たちは皆自分の成長を望んでいる。ただ食べて、寝て、テレビを見て、週五日働くだけでなく、それ以上の人生を送りたいと思っている。それ以上の人生とは、成長すること、すなわちより人間的になることである。だが、死についての一般的な概念の中には成長する見込みは含まれていない。人間を成長に導くのは、人生の他のいかなる力よりも、死が迫りつつあることと、死までの過程を経験することである」と述べている。

私は今年98歳になり、人生の黄昏を迎え、「私の一生は価値ある一生だった。本当に生きたのだから」というE・キューブラー・ロスの言葉を、私も言いたい。ギリシャの哲学者エピクロスは、「人生の最大目的とは、心の平安を得ることだ」と言い、「人間の心の平安を乱す最大の原因は、自分の死についての想念、怖いという思いである」と言った。私は今、「あなたが死を恐れるとき死はまだ来ていない、死が本当に来たとき、あなたはそこにいない。だから死は恐れるに当たらない」という彼の言葉どおり、心の平安を保ちながら、自分の死を考えられるようになっている。

人生の法則を三つに分けて私見を述べた。私たちの命が与えられ、生きていることに感謝して日々を送るなら、幸運は願わずとも招来する。さらに、自らの使命を果たし終えて、眠るがごとき安らかな死を迎えられる人生は、素晴らしいと言えるだろう。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2018年10月)より』

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