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Vol.233 「一灯破闇」

2021/09/01

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

一灯破闇とは、一つの灯を自らの心に掲げて歩み切ることを意味している。昨年10月、私は100歳を超えた。今も毎月致知誌のテーマに沿って、パソコンに向かい、自分の考えをまとめている。この有難い長寿に恵まれたのは、健全な体質と怜悧な頭脳を父母から与えられていたからに違いない。

特に、父から受けた精神的な感化は大きかった。長男の私に大きな期待が寄せられているのを常に感じていたが、叱責を受けたことは一度もなかった。温かく見守ってくれる父は、威厳があり怖い存在だった。家では勉強した覚えはないが、成績は6年間首席だった。この6年間は私の人間形成に影響を与えた。私は皆と同じではない、自分の考えを持つ必要を心に抱いていた。そのためか自ずと自分を客観視し、孤独を好むようになっていた。客観視することから自制心が生まれ、その自制と自律が克己の喜びをもたらした。

父は若い時に習得した溶接の技術を素に独立し、零細な工場を営んでいた。私を後継者にするべく、大阪の職工学校に行くことを勧めてくれた。職工という名前に嫌な気がしたが、府立であり、競争率が8倍と聞いて思い直した。当時、高松中学の競争率は2.5倍だったのを記憶している。それにしても、13歳の私を大阪へ送り出した父の英断は、我が子を持ってみて初めて大きな愛であることを知った。「可愛い子には旅をさせよ」である。母は私一人での下宿生活を案じてよく励ましの便りをくれた。母の愛も深かった。

卒業した昭和13年、日本には徴兵制度があった。私は徴兵年1年前に志願して、昭和14年10月横須賀海軍航空隊に入った。かねて、海軍は殴って教えるところだと聞いていたが、聞きしに勝る厳しい訓練が待っていた。「動作が鈍い、気合が入っていない、娑婆っ気が抜けてない」などと怒鳴られ、その度に鉄拳を頂戴した。それが1年間続いた。3年の兵役が1年で済むのだから厳しいのは当然であり、その効果も目覚ましかった。1年後の私は、心身共に自分でも見違えるほどの逞しさを身に付けていた。この殴って教えてくれた貴重な体験は私の一生の宝になっており、100歳を迎えられたのはこの時の鍛錬のおかげである。海軍の訓練に感謝してやまない。

1年間の兵役を済ませた後、予備役になったが、翌年に日米間の戦端が開かれ召集された。私は内地勤務がまどろっこしく、前線への赴任を申し出た。隊内で志願したのは私だけであった。私の徴兵1年前の志願や、生死が危ぶまれる前線への赴任希望は、20歳の時に単身で北海道へ飛び込んでいった父の、血気盛んな血が私にも流れていたといえる。

その後3年余にわたる前線の体験は、私の一生を覆すほどの学びがあった。死に正面から向かい合い、自分が魂の存在であることに気付いたのである。死を覚悟し死を決意するのは、理性や心でつくれるが、死を決行することとは天地の開きがある。生きることを断念し、いつ死んでもよい心境になって初めて命を投げ出す行動ができる。その死生を超えた心境は、魂からしか生まれないと身をもって知った。

いつ死んでもよいという悟りの心境が、死に向かって突き進ませる行動となった。というと、いかにも戦争や軍隊を賛美しているかのように思われるだろう。だが、たとえ平和な時代においても、私たちには必ず死は訪れる。死を覚悟し受け入れることは、戦場と少しも違わないではないか。死を恐れていてどうして幸せになれるだろうか。しかし、今の時代では死と向かい合い、いつ死んでもよい生き方への悟りの境地は得られ難いだろう。幸いにも私は、戦場で死と向かい合う中でそれを手中にできた。

思えば、波乱に満ちた私の人生は運命に翻弄されたが、その運命はまた自分がつくってきたともいえる。自分にまつわるすべての出来事には意味があり、事故や災難、失敗や病気さえも尊い教訓が含まれていた。それらは、必要だから与えられたのだと受け取り、皆プラスに変えることができた。父から示された一灯が、私の乏しい能力を発揮させ歩む道を照らし、悔いない人生にしてくれたといえる。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2021年7月)より』

航海日誌