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Vol.77 幸せとは何か

2003/06/02

今回は、多田野弘よりエッセイをお届けします。
新緑の美しい季節、一年で一番過ごしやすい時期ですが、いっぽうで"五月病"にかかってしまった人、体調を崩して寝こんでしまった人、少なからずいらっしゃると思います。美しい景色も、身心が不調では心から楽しむことはできません。「幸せは求めて得られるものではなく、感じるもの」というメッセージに、自分の心のなかに眠っている"感受性"を柔軟にしていたいと改めて思いました。【編】


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「幸せ」とはよく口にするが、一体どんなことかをハッキリ言える人は少ない。また、人は誰でも幸せになりたいと願っているが、どうすれば幸せになれるかもハッキリしていない。

幸せというのは、愛するとか、信じるということと同じように、理屈で考えて得られるものではなく、理性で割り切れる合理的なものではないからである。

「幸せだなあ」と感じたときが幸せなのであって、どんな豪邸に住んでいても「私はなんて不幸せなんだろう」と思えば幸せではあり得ない。たとえ六畳一間に親子三人で住んでいても、「私はなんて幸せなんだろう」と思っていれば幸せなのである。だから、どんな状況にあろうとも、幸せを「感じ」る心、感性を持っていれば幸せになれる。

「幸せ」は、実は実体のないことをどう受け止め、どう「感じ」るかによる。例えば雨の日に、ある人は「鬱陶しいなあ」と天を恨むが、ある人は「いいお湿りだなあ」と雨を喜ぶ。雨が降るという事実は一つでも、感じ方は正反対となる。また、石に躓いて怪我をし、血が流れているのに「あ、有り難い」という。周りの人が不審に思い「怪我しているのになぜ有り難いのか」と尋ねると、「これくらいのかすり傷ですんだのは有り難いことです」と答えた。また、小欲であればある程、少しのものを与えられても大きな喜びが味わえるのである。

このように、「幸せ」に実体がないのと同様に、不幸せにも実体がない。だから、物事を不平不満で見る癖を持っていると、身の回りに起こるすべてのことを不幸に感じるのである。(中国の諺に、人間万事塞翁が馬とある)。年に一度か二度の大きな喜びにしか幸せを感じられない人よりも、小さな喜びを一日に一つずつ見つけていく方がどれだけ幸せな人生になるかしれない。

また、一切の災いの中にも、幸せの芽が潜んでいるともいえる。諺の「禍福はあざなえる縄の如し」「失敗は成功の元」「苦は楽の種」が示す様に、人間は苦難や試練から多くのことを学び取ることができる。知恵ある人は、身の回りに起きた出来事は、嬉しいことも辛いことも、すべて自分にとって必要だから与えられたのであると受け取って、今日のあるがままを幸せと感じ、明日のことを思い煩うことがない。

「幸せ」は求めて得られるものではない。条件が揃えば得られるものでも、合理的な思考の産物でもない。だから、実体のない幸せを追い求めているのは誠に不幸なことである。安逸な、至れりつくせりの環境を求めることは、むしろ人間を堕落させ、幸せから遠ざけるが、苦難や失敗の門をくぐることによって、求めなくても「幸せ」を感じることができるのだ。

また、私たちに死があるから、生きる事の尊さがわかるのであって、もし死なない世界があるなら、この世は退屈な地獄の苦界となるだろう。したがって、「苦」があるからこそ「幸せ」を感じることができるのだ。

航海日誌