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Vol.231 「命いっぱいに生きる」

2021/07/06

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

「命いっぱいに生きる」とは、まさに今の私に与えられた天の啓示ともいえるテーマだと感じた。私は100歳を超え、いつ死を迎えても不思議ではない年齢である。死を迎えるまでの残された年月をどう生きるかを問われていると思った。

ローマの哲学者ルキウス・アンナエウス・セネカは「いかに長く生きたかではなく、いかに良く生きたかが問題である」と言っている。たとえ短い生涯であっても、充実した日々を過ごした人生はいつ寿命が尽きても満足して旅立てるだろう。105歳まで現役で活躍された聖路加国際病院の名誉院長、日野原 重明は著書『長生きすりゃいいってもんじゃない』に、「逆境が成長の糧、ストレスが健康の素」と述べている。長寿と長命とは全く違う。たとえ病院で寝たきりになり、生きながらえても長命といえる。一方、長寿とは、いつまでも健康で楽しく暮らしていくことである。

誰もが長寿を望んでいるが、人々の日々の過ごし方はむしろ逆の結果を招いているのではないか。というのは、青春を無駄にすると思った戦場の3年間がその後の私の人生を変えたからだ。それは、人間の最大の苦しみである死が、喜びに変わるのを知ったことである。家族や国のため一命を捨てようと積極的に死を受け入れた。死を恐怖ではなく喜びに変えたのは、理性(頭)で考えたのではなく、心の奥から聞こえた魂の声に導かれたのは間違いない。

以来、自分が、命さえも捨てさせる力を持つ魂の存在であることを知った。戦後、生かされた恩に報いねばならぬという思いが、日々の私の生活を厳しくしていった。アラームなしの5時起床を始めとし、禁煙、マラソン参加、早朝の冷水浴、年頭の寒中水泳を自分に課していった。苦行のようなことが自然体でできたのは、それらが克己の喜びとなり、魂の歓喜になっていたからだ。しかも、苦しみが大きいほど喜び が大きいことを知った。わが身に起こった災難も、不運も失敗も病気も、すべて私にとってはプラスになった。苦難は成長進歩の教師であり逆境こそが人間をつくる絶好の機会になっていた。

最近、かつての太平洋戦争で同じ部隊で戦った2人の先輩が、102歳の天寿を全うされた。両人の訃報を聞いても、不思議に悲しみの感情は湧かなかった。75年前、私と同様に当然死ぬべき運命だったのに、最後まで命いっぱいに生きられたのは祝福こそすべきと思った。その1人は、私の最初の戦場マーシャル諸島以来、ラバウル、サイパン、ペリリュー島、フィリピン、の5つの戦場を3年余共に戦い、死ぬ目に遭いながら生きてこられた古強者、渡辺上等整備兵曹である。もう1人は、私が昭和20年1月フィリピンから、限られた航空便を得て着任した内地の721航空隊にいた佐藤海軍大尉(戦後、四国電力社長)である。御両人と最後まで親しく交流できたことは私の大きな励みになっている。

私が100歳を越えられたのは一重に神の恵みであり、その恩恵に報いねばならぬと心に誓っている。「一日一日を大切に生きる」思いに衝き動かされており、いつ死を迎えても悔いのない充実した日々を命いっぱいに生きている。

 

 

命いっぱいに生きる(続)

 

先に表題について述べたが、何か大事なことが抜けているような思いから(続)を書き加えた。今回のテーマ「命いっぱいに生きる」とは、命ある限り精一杯力を尽くして生きよと言っている。それを妨げているのが死への恐怖ではないだろうか。命いっぱい生きるには、死を怖がったり、忌み嫌ったりすることなく、死を思い見つめて生きることが大切である。

ヴィクトール・フランクルも著書『「生きる意味」を求めて』の中で、「死はすべての人間に必ず訪れるものである。しかし、死がいつか来るものと思っている限り、人間は『自然に殺される存在』となる。その、もっと生きたいのに殺されるという気持ちがある限り、死は不安の種であり、そこから逃れることはできない。その不安を脱するには、殺されるという気持ちを乗り越えなければならない」と述べている。

私が南方の戦場で、「ここが俺の死に場所だ!この戦いで死ななきゃ死ぬときはない」と死を決意した瞬間、死ぬも生きるも気にならなくなった。もう怖いものは何もない、解放された自由な気持ちになったのを忘れることができない。死を待つのではなく、積極的に受け入れたからこそ得られた心境である。捨てなければ得られない。

戦場で毎日死の恐怖にさらされたおかげで、死は当然の出来事であり、死なずにいるのは不自然だと思うようになっていた。いつでも死ねるという気持ちだったから、弾降る中を平気で行動することができた。そうした体験は戦後の私の人生に影響せずにはいなかった。

繊細な心の動きや微妙な感じに疎いK・Y人間になり、他を少しも気にせずに、人が考えないことを実行に移して得意になっていた。それらは、マイナス面があったかもしれないが、総じて思いもよらぬプラスをもたらしたのは間違いない。従って私の行動は、群れに交わるのを好まず、孤独を良しとするようになった。冠婚葬祭はすべて欠席するので不人情のそしりを免れないのは計算済みである。しかし、気心の知れた友数人との交流は何十年も続いているから、まんざら捨てたものでもない。

私は、戦後も多くの先哲の書から死に対する思索を深めてきた。ソクラテスは、「だれ一人死を経験した者はいない。死は人間にとって、あらゆるよいものの中の最大のよいものではないか、ということさえ知らないのに、人々はあたかもそれが最大の悪いことであると、よく知っているかのように恐れるからです」と語っている。また、ギリシャの哲人エピクロスは、「生きている内は、死はやってこない。死ぬときには、人は生きていない」と述べている。人が死ぬときには既に意識がなくなっているから、自分の死と対面することができない。つまり、自分がいつ死んだかを知ることができない。生きていると思っていたが、いつのまにか死んでいるのである。それは丁度、私たちが眠りに入ったとき自分がいつ眠ったかを知ることができないのと同じだと言っている。

死は誰も経験できないことである。私はかつて仮死状態になったことがあり、エピクロスの言を証明することができる。昭和20年3月21日、宮崎航空基地の滑走路の脇にいた私は、突然強烈な風圧を受けて倒れ、意識を失った。150キロ先の別府海軍病院に着いて初めて自分が負傷して運ばれたのを知った。両眼が見えなくなっており、腕にも傷をしているのに気が付いた。倒れてから3時間余意識を失っていたのである。もし意識が戻らなかったら、私は戦死者名簿に載せられていただろう。この体験で、私は、死は安らかなものであることを垣間見ることができた。2か月後眼が見えるようになり、原隊に復帰した。

死は少しも恐れるものではないのが分かってもらえただろうか。どうか、死の不安を払拭し、必ず訪れる死を自覚し、「生」を考えて命いっぱいに生きてほしい。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2021年5月)より』

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