クッキー(Cookie)の使用について

本サイト(www.tadano.co.jp)は、快適にご利用いただくためにクッキー(Cookie)を使用しております。
Cookieの使用に同意いただける場合は「同意する」ボタンを押してください。
なお本サイトのCookie使用については、Webサイトにおける個人情報の取り扱いについてをご覧ください。

検索

Vol.237 「努力に勝る天才なし」

2022/01/11

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

今回のテーマは、努力が天才より勝ることを示している。たとえ、素晴らしい才能があっても努力なしでは顕現できない。努力が大事なことは周知の事実だが、心身の苦痛を伴い実行が難しい。しかし、苦痛なしに努力できる方法がある。端的にいえば、努力することに喜びや気持ちよさをつくることである。「好きこそ物の上手なれ」の言葉にも通じる。努力が楽しみになれば苦痛ではなく喜びとなる。だが、どうして苦しみが喜びになるのだろうか。

苦痛を耐え忍ぶのではなく、楽しみながら継続するなら朝の洗面のように習慣となる。世の中に「意志が強い」と自覚する人は少なく、「なんて意志が弱いのだろう」と自省している人が多い。私たちは何か良い習慣を身につけたい、あるいは悪習慣を止めたいと相当な決心をして取り組んでも、いつの間にか三日坊主の尻すぼみになっている。それを何とかしようと自分に鞭打ち努力するのだが、結果は元の木阿弥になる。

これは出発点の考え方が誤っているからではないだろうか。肉体を鍛えるのと同様に、弱い意志力を叩いて鍛えればもっと強くなると思うところに大きな錯誤がある。肉体があるように意志という形のものがあるわけではないから、肉体を鍛えるように弱い意志を鞭打ち鍛えることは、本来できない相談である。

問題は「意志や意欲」が自分のどこから発しているかに関係しているように思う。つまり、その出場所によって「三日坊主」になるか「やり通す」かとなり、それを「意志が弱い、強い」と言っているだけである。出場所は2つあって、「心」から出る意思は弱く、「魂」から出る意志は強いといえる。ところが、私たちは自分が意識できる「心」が精神作用の全てと思い込んでいて、「魂」なるものの存在をあたまから否定してしまっているが、心と魂は別ものなのである。

意志の弱さは「心が魂にそむく」ことに起因するといえる。なぜならば、心はとかく末梢的な、五官の感覚を喜ばせる快楽を求めるが、魂の方はもっと次元の深い、本当に自分のためになる快楽を求める。それゆえに、五官にとっては苦しく、心が喜ばないことを魂は快楽とすることがある。味覚を例にとれば、心は舌の快楽を求め、飲み過ぎ、食べ過ぎ、美食に陥って健康を損ねることがあるが、魂は逆に粗食や節制を必要となれば断食さえも快楽とする。

心が澄んで五官の欲望に流されず、虚心、無心になれる人は好奇心に溢れ、魂の命令に忠実に従うことができる克己の人である。だから意志の強弱というのは、魂の命令に従うか、心の欲することに従うかによって決まるといえる。努力、忍耐、克己という言葉から、苦痛を連想するか、それとも快さの方を意識するかである。前者の人は、心の欲望が強く、忍耐、克己に苦痛を連想し「楽しくない」ので努力が続かない。後者の人は、忍耐、克己を魂の喜びと感じられるので「楽しみながら」努力できるのではないだろうか。

楽しくないことは長続きしない。例えば、私はアラームなしの5時起床を、何十年も続けており、元日の海での寒中水泳を93歳まで49年間続けてきたことにも見られる。人から「意志の強い人だなぁ!」と感心される。だが、私はこれを楽しんでやってきた。毎朝5時起床も辛さをこらえ、無理に自分に鞭打ってやっているのであれば、1ヶ月も続かなかっただろう。私は、早起きすることが「気持ちいい」から習慣となり、今もそうするのが当たり前になっている。

楽しくないことは長続きしないが、苦痛が快楽になれば続けずにはいられない。そうした努力が続くと、習慣がつくられ、よき習慣は期せずして人格を形成する。人格は、環境を変えるとともに運命を変え、素晴らしい人生を創造せずにはいない。まさに「努力に勝る天才なし」である。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2021年11月)より』

航海日誌