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Vol.238 「死中活あり」

2022/02/02

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

今回の「死中活あり」は、いかなる過酷な状況に置かれても活路は見出せるということである。これほど私に相応しいテーマはないと思った。私はかつて青年期に、数知れぬほど死に直面している。3年間にわたる、南方(ラバウル・サイパン島・ペリリュー島・フィリピン)の4戦場での体験である。このように最前線で闘い続け、幾度も死ぬ目に遭遇したのは、海軍兵士多くとも稀有の存在ではないかと自負している。死に方を考え抜いたエキスパートと言ってもよいだろう。死に直面しながら、いかにして死中に活を得たかである。

現今のような平和な時代においても、私たちが遭遇する絶望的困難や死をどう考えるかの問題は、戦場と少しも違わない。考え次第で死中に活を得られるかどうかが決まるからだ。ところが、必ずやってくる死については、大抵の人が生きたいと思う自分に情け容赦なく約束させられる、恐るべきことだと受け取っている。そのような考えでどうして、死中に活を得られようか。今の私があるのは、何度も死に直面したおかげと思う。

私が死中に活を得た数ある体験の一つを述べたい。昭和19年1月ラバウルでは、連日、100機に余る戦爆連合の空襲に対し、我が戦闘機200機余が邀撃、撃退していた。しかし、日を経るにつれ、彼我の補給力による戦力の差が大きくなり、このまま推移するなら死がそう遠くないことが一兵士の私にも予想された。連日の戦闘が続く中で、毎夜「今日は無事だったが、明日は分からんぞ」と自分に言い聞かせて眠った。ある深夜、「びくびくせずに潔く死ね」という声が心の奥から聞こえてきた。「そうだっ!祖国と家族の平安のために命を捨てるのは男子の本懐だ」と、スパッと死を決心することができた。この死こそ、自分を最高に活かすことになると考えたからだ。

すると不思議にも、心が解放されて自由になり、澄み切った青空のような気持ちになったのを今でも覚えている。それ以来、自分が驚くほど、平気で弾雨の中を動き回れるようになった。命懸けの行為だからこそ活路が開かれるのだという考えは、期せずして私の人生観の核となっている。捨てなければ得られないのである。

死中に活ありの体験をもう一つ記す。ラバウルは次第に敗色が濃くなり、我が隊は全員サイパン島に移動が決定された。私たち地上員250名余は2隻の貨物船(海川丸、羽黒丸)で行くことになったが、さて、困ったことになった。その頃既に、空も海も米軍の勢力下にあり、出て行く船はほとんど沈められていた。地上であれば、一発の弾丸で瞬時に死ねるが、船が沈めば、どのようにして死ねばよいかを考えずにはいられなかった。出港の前夜は悶々として眠れず、夜が白む頃になってやっと一つの案が浮かんだ。水中を深く潜って、ある深度に達すると意識を失うことを思い出した。「よしっ、これでいこう」と、死に方を得た私は安心して泥のように眠った。

出港した翌日、案の定、見張り員の「空襲」を連呼するのが聞こえた。上空を見ると、コンソリデーテッド(双発爆撃機)がこちらに向かってくるや、爆弾を投下し始めるのが見えた。しかし、甲板には退避する場所はない、どこにいても死ぬのは同じと突っ立っていると、轟音と共に海水がどっと頭上に落ちてきた。「しめたっ!至近弾だ」、ふと見ると、僚船(羽黒丸)が直撃を受けたのか舳先を上にして目の前で沈んでいくではないか。我が船でなくてほっとしたが、彼らの苦難をどうすることもできない自分が情けなかった。

我が船は無傷だったので運航を続けていた。だが、翌日の昼過ぎ、見張り員の「雷撃!」という声を聞くや否や、轟音と共に私は甲板に叩きつけられた。起き上がってみるとどこも傷をしていない。船は機関をやられていないのか進んでいる。私はとっさの判断で2発目の雷撃必至とみて、舷側から海に飛び込んだ。行くも死、留まるも死だった。

赤道直下の海は冷たくなかった。山のような波の頂上に来た時見ると、私と同じように船を捨てた兵士たちが点々と浮かんでいる。さて、私はこれからどうすべきか、このまま浮いていても半日は持つまい。だが、疲れ果てての溺死は真っ平御免だ。その時こそ出航前夜に思い付いたあの手で死のうと思うと、すとんと気が楽になった。しかし死ぬのはまだ早い、潜る力を残して、それまで浮いていようと思った。

太平洋の波間に一人浮いていたのだが、少しも寂しいとは思わなかった。海軍は、海が働く場であり家であり、同時に墓場でもあるからだ。漂いながら、このような死でも戦死になるだろうか、家族が知って讃えてくれるだろうかなどの思いが、次々と走馬灯のように頭に浮かんできた。それにしても、こうして積極的に死を受け容れられる自分を誇らしく思えた。ふと見ると、夢ではないか、いつの間に来たのか遠くに我が駆逐艦がカッターを降ろして救助をしている。私は急いで泳いで行き、カッターに引き揚げてもらった。結局、潜らずに済んだ。

これを記しながら、驚くほど今の境涯に似ているではないかと思った。今でも直感が鋭く、決断が速いのはこの時の体験によるといえる。101歳を迎えた私だが、死ぬのはまだ早い、その時が来るまで充実した悔いのないものにしよう。捨てなければ得られない、生かされている今に感謝して、75年前のような「死中活あり」の毎日を過ごしている。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2021年12月)より』

航海日誌