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Vol.239 「人生、一誠に帰す」

2022/03/01

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

今回のテーマは、自分の一生がどうであったかを考えさせられる。何年か前、日野原重明著『長生きすりゃいいってもんじゃない』を読んだ。いくら長寿を誇っても、他に役立っていないなら、何のために生きたのかを考えてみよと言っている。世のため命を懸けて働き、早逝した明治維新の人たちの記憶は永久に消えることがない。生き延び長生きしか考えない存在には、誰もなりたくないだろう。

私自身が100年余の人生をどう生きたかを振り返ってみる。一生を通して、私を行動に駆り立て、奮起させたのは主に、私の積極的な気質だと思っていた。徴兵1年前に海軍に志願したことにも現れている。その頃の常識では、なぜ好き好んで軍隊にいくのかと嘲笑する人が多かった。入隊後まもなく戦争が勃発し、最前線に出してくれと逸早く申し出たのも隊内で私一人だった。

だが、人生を左右する大事なことを単に気質のみで決めたのではなかった。もっと大きな何かによって、牛耳られているのではないかと感じていた。死を避けられない戦況下、ラバウル基地でのある夜、心の奥から聞こえてきた「びくびくせずに潔く死ね」を、魂の声だと直感したのである。その後もサイパンへ移動中に船が魚雷を受け沈没漂流、ペリリュー島・フィリピンでの戦闘など、幾度も死に直面したが奇跡的に生き残った。それらを通じて私は、神の意志を帯びた何かが生かしてくれたのだと信じるようになった。しかしなお、魂の存在は独り合点かもしれないと考えていた。

戦後、幸いに三人の先哲の書から魂について貴重な示唆を与えられた。ロシアの文豪レフ・トルストイの著『人生の道』に、「魂は肉体に宿り、心と身体を支配し統御する」とあった。辞書にも同じ文言で記されているのを見て感動した。わが意を得たりと、私の魂についての考えは揺るぎないものになった。

もう一人は、ヴィクトール・エミール・フランクルであり、その書『夜と霧』である。オーストリアの精神医学者だが、ユダヤ人のためドイツのナチに捉えられ、アウシュビッツ収容所に送られたのち、妻はガス室で殺された。彼は収容所内で不思議な光景を目撃した。逐次呼び出されてガス室に送られるので、囚人は皆、いつ呼ばれるかと戦々恐々としていた。ところが、呼ばれた中のある者は、昂然として国歌を歌いながらガス室へ入っていった。また、指名された若者の身代わりを買って出る不可解な老人もいた。病人の枕元に自分のパンをそっと置いて、作業に出ていく者もいた。彼はこれらを目前に見て感動し、このような崇高な犠牲的精神は人間のどこから出ているのかを考えた。後にそれを、超越的無意識であり、日本でいう魂であると発表するや、たちまち世界中で翻訳されてベストセラーになった。

さらに、古代ギリシャの哲学者ソクラテス(前470~前399)は、日本の縄文時代、竪穴式住居で食べることしか考えなかった頃、既に「魂は不滅、真の自分は魂である。徳を養い善を行え」とアテネ市民に説いて回った。凄い人がいたのである。彼の説く「真の自分は魂である」は、私が最初に直感したのと同じだったので、意を強くした。

先哲三人から魂の素晴らしい働きを知った私は、心や理性よりも魂に従って生きようと心に誓った。したがって、戦後の生活は苦しかったが私には天国だった。生命の危険が全くなく、生かされている喜びしかなかった。ところが、その平穏な環境にも違和感を覚えるようになっていた。かつて、何度も死ぬ目に遭いながら生かされてきたにもかかわらず、何らその恩に報いてないことに負い目を感じていた。同時に、海軍の規則正しい爽快な生活が偲ばれてじっとしていられなくなり、思いついたのがアラームなしの5時起床だった。

自発的な早起き、起床後のジョギング、ジョグ後に自宅のプールでの水泳、元日の寒中水泳などを93歳まで49年間続けた。他の人から見ると、よほど意志が強いからだと思われるが全く違う。魂が私を衝き動かしていたのであり、やり終えた後の爽快感が続ける原動力にもなっていた。自分を統御・支配できた克己の喜びが大きかった。

大いなるものの存在を感じ、自分を統御して、生かされた命の意味を自分に問いかけながら、何かのために生きぬくことは「人生一誠に帰す」といえるだろう。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談(2022年1月)より』

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