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Vol.107 父親の背中

2006/11/01

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父は35年前、71歳でこの世を去った。もっと長生きして余生を楽しんでもらえなかったことが悔やまれる。

父と共に生活したのは、私が12歳までと、戦後の約25年間だった。その間を通じて、私に植え付けられた父の印象は、世間的な父親像と違っていて、慈父というよりは近寄り難い師のような意識が強かった。私は父に対して絶対服従するものと決めていたから、口答えなどおくびにも出さなかった。

父は常に寡黙だった。自分の考えを黙々と実行に移して止むことがないように見受けられた。くつろいで冗談口をたたくのを見たことがない。特に私に対しては、何をせよとか何をするなとかを命じたことがない。しかし、常に黙って見守ってくれていたように思う。放任していたのでなく、大事なことはちゃんと決めてお膳立てしてくれていた。

私が小学校を終えるとき、地元に工業高校がないので、大阪の学校を受験する手続きをしてくれた。8倍の競争率だったがパスできた。当時12歳だったが、初めて独り親元を離れる不安と寂しさに小さな胸を痛めた。しかし、よくぞ行かせてくれたと思う。「ライオンは我が子を谷に突き落とす」「可愛い子には旅させよ」と言うが、我が子を強いて困難な目に遭わす親の底知れぬ愛を感じずにいられない。

戦後、父と共に仕事を始めたときも、30歳に満たない私に「お前の好きなようにやりなさい」と、会社の経営についてのすべてを任せた。私は寝食を忘れて仕事に熱中せずにはいられなかった。創業後は何度も失敗を繰り返し、困難な状況が続いたが、その都度父は黙ってそれを繕ってくれ、影になって支援してくれた。しかも、そのことに対して一言も私を非難しないのが、私に対する最大の警告となっていた。

父は謹厳実直で、しかも頑固だった。自分がいったんこうだと決めたことは、何処までもやり通すという気質があった。しかも責任感が強かったのだろう、7人兄弟の長男としてじっとしていられなかったに違いない。商業学校を中退して実業を志し、20才を越えたばかりで何の伝手もない北海道に飛び出している。

この開拓者精神と、恐れを知らぬ冒険心は、かくいう私にも引き継がれているらしい。海軍に入隊後、戦争が始まるや真っ先に戦地勤務を申し出たのは私だった。50歳になってもセスナの操縦免許を取ろうとしたり、風だけが頼りのヨットを始めたことなどは、まさしく父からの遺伝によるのかもしれない。

また、父の頑固さは喫煙の習慣によって示される。そのため、若いときから胃を痛め、常に"有田ドラッグ"なる胃腸薬を常用していた。時々痛みが酷くて、医師から「タバコを止めないなら命の保証はしませんよ」とまで言われた。直後禁煙はするが、胃の調子がよくなるとまた元に戻るということが生涯繰り返され、最後まで喫煙をやめようとしなかった。あのタバコの猛毒ガスを吸いつづけた頑固さは、敬服に値する。

その頑固な父の子である私も、頑固でないはずがない。40歳から始めたアラーム無しの5時起床、続いて行うジョギング(75歳からウォーキング)、その後プールでの一泳ぎなどが一年中休み無く続き、正月の海での寒中水泳が今も止められないでいるのは、やはり頑固な父の子である証拠であるといえる。その頑固な気質は、私の弱点でもあるが、人生に大きくプラスとなって開花してくれたように思う。

このような父の行状から、堅苦しい冷たい家風のようだが、それだけに父の示した慈愛のこもった温かい心情は、私の思い出の中に強く残っている。母が毎月送ってくれる小遣いを貯めて、ある夏学友と共に購入したテントで屋島の海岸でキャンプをした。その頃キャンプ生活といえば、若者の最先端スポーツだった。父は知らなかったのか、「そんな浮浪者の真似はするな」と一言漏らした。その後「一緒にキャンプしてみようか」と言うので、香西の神在之浜でテントを張り、父と波の音を聞きながら眠った。翌朝満足そうに「キャンプ生活もなかなかいいね」と言ってくれた。

記憶を辿りながら思い出すままに述べたが、総じていえることは、よくぞ父の子として生を受けたと思わずにいられない。多くの言葉を交わしたわけではないが、いつも気脈が通じ合い、阿吽(あうん)の呼吸で理解し合っていたように思う。父の一挙手一投足が私への無言の教育であり、背中を見せて導いてくれたことを生涯忘れることができない。

航海日誌