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Lifting your dreams
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Vol.112 人生の主体となるには

2007/09/07

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人生というのは、自分の思い通りにならないこと、自分の意思とは別に取り組まなければならない場合も多々あると思います。 自分の意思とは別に取り組まなければならないことは、知らず知らずの内に受動的に行動しがちになり、環境のせいにしたり、人のせいにしたりして、せっかくの限りある人生を不幸なもの、面白くないものにしてしまいます。
もっと精神を強く持ち、視野を広げて、面白くない人生を面白くする(受動的な人生を、自発的な人生に変える)努力や工夫をしないといけない、と分かっていても、簡単に心を切り替えることができない場合、どうすればいいのでしょうか?

自分について真剣に考えれば考えるほど、人は悩むようになっている。自己意識が高いほど悩む、それが人間なのだ。人は普通、今の自分のままでいいのかどうかを悩むのであって、「このままではいけない」という気持ちが起きる。こうした気持ちが主体性に目覚めるきっかけとなる。主体的とはどういうことをいうのだろうか。常に自分を客観視し、自分を客体として捉えることによって、自分の思考と行動を完全支配下に置くこと。つまり、自分に勝つ「克己」のことであり、自主自律的人間になることである。すると、"自分"を律することができる"もう一人の自分"がいなければならない。

一人の人間に二人の自分がいるはずがないが、"もう一人の自分"とは何を指しているのか。あなたの問いにも、「自分の意思とは別に取り組まねばならない」とあるのは、"もう一人の自分"がいることを認めているからだ。 主体性ある"もう一人の自分"とは何だろうか。私たちはこれまで、人間は精神と肉体、理性と本能とで構成され、理性としての自分が本能としての自分を統御し支配していることが人間の生き方だと考えてきた。ところが、本来自分は一人であるのに、意識の上で理性としての自分と、本能としての自分という、二人の私を作っているのである。さらに、人間の肉体は六十兆個の細胞から成り立っていて、六ヶ月から三年位までの間に全部入れ替わってしまうから、この肉体を私だと思っていたら私という人間は三年ごとに別人にならなければならない。だから肉体は自分の主体とはいえない。また理性というものも、生まれてから言葉を覚え、言葉を事実に結び付けていく作業を通して、考える能力を作ってきた。だから、理性は自分が作った考える機能であって自分の主体であるはずがない。

結局、「俺」「私」「自分」というのは、私たちの誕生の起源から働いている「感性」こそが主体であり、"ほんとうの自分"だということになる。この六十兆の細胞を一個の命として結合し、纏め上げている力は感性の統合力である。だから、人間の命は、理性と感性と肉体が一つの有機体として結び合っている、その核になるものが感性である。したがって感性こそが人間の本質であり、主体である"ホントウの自分"なのだ。

私たちの頭脳は、眠っている間は全く働きを停止する。しかし、眠っていて意識がなくても呼吸もするし、心臓も胃腸も働いてくれている。だから生きていられるのである。これらの働きを総括している大事なものが、私たちの身体のどこかに内在していることは否めない。この私たちを生かしている大事なものを昔から魂と呼んできた。この魂こそが「私」「自分」「俺」という人間の本質であって、感性は魂が機能する働きであると考えられる。私たちがもし、理性と本能のみに依存して生きていくならば、永久に魂の存在を知ることなく、理性と本能との矛盾、葛藤による苦悩の多い人生を過ごすことになるだろう。

 

しかし、魂の存在を科学的合理的に説明することは出来ない。なぜなら、理性を超えた感性で、感じることによってしか知り得ないことだからだ。日頃私たちが感じる、直感、インスピレ―ション、ひらめき、虫が知らす、気がつく、予感がするなどは理性ではない、凡て魂からの発信と考えられる。私たちの、愛することも信じるということも、魂からの働きかけであって、理性による合理的思考から生まれることはない。私たちの肉体は、いわば魂の容器の役目を司っていて、肉体が発信する本能は私たちを行動に駆り立ててくれるが暴走する性質を持っている。

その暴走を制御するために理性が備わっているのだが、理性で暴走を統御し得ないのは誰しも身に覚えがある。また理性は自分の力で作ったものに過ぎないから、言葉や文字に表せない事柄については、盲目同然の不完全きわまるものだといえる。また、理性は私たちの「意欲」は作ってくれるが「意志」は作れない。本能を完全に統御できるのは魂から発する「意志」しかない。魂の存在を信じ、その声を聞き、その指示するところに従って生きることによって、完璧な主体性ある人生を送ることができる。

人生の主体となる"ホントウの自分"は、感性の働きをもつ魂なのだ。肉体は魂の容器であり、理性は魂の召使である。どんな環境であれ人生の主体となるには、"ホントウの自分"である魂の存在を信じるかどうかによって決まる。そのとき始めて自己を信じると同時に、主体性を持つことが出来るのではないか。自己を信じることができず、主体性のない人に、どうして他人を信じ、愛することが出来ようか。

航海日誌