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Vol.122 ユーモアについて

2009/07/14

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西欧の経営者やリ-ダ-のスピ-チには、必ずユ-モアのあるジョ-クが一言含まれていて、教養の深さや余裕、自信をそれとなく感じさせる。悔しいが私には、その「ゆとり」のある人間的魅力が欠けている。気づいてはいたが、泥縄式に身につくものではない。ユ-モアとはどういうことなのか。自分ではおよそ分かっているつもりだが、いざ言葉で表すとなると難しい。私なりに強いて言えば、ユ-モアとは、話の中でとっさに出る機知に富んだ言葉が、笑いとゆとりを感じさせ、意表をついた言葉に「落ち」があって、その人間味のある「滑稽さ」に思わず笑ってしまう。しかも、人間的に魅力ある温かみや潤いで周囲をリラックスさせることをいうのではないだろうか。

「笑わせること」と「ユ-モア」は、本質的に違っていると思う。〔笑わせる〕という場合、話す人が意図して、喋りや仕草で聴衆を笑わせようと演技をする。代表的なものに漫才や落語があり、内容が駄洒落やギャグが中心となっている。

人間の笑いは生来のもので、生まれて間もない赤ん坊でも無心に笑う。だが、大人が笑う〔ユ-モア〕には知的要素と情感が加味されねばならない。品性とゆとり、心の豊かさが要求される。自分を客観視して、物事を大局的に捉えての発言することが、ユ-モアを生み出している。自分の失敗さえも笑って済ませられるのは「余裕」であり、主体性の現れである。私がユ-モアを身に着けたいと思う理由がそこにある。元来、私は口が重いマジメ人間を自負していただけに、ユ-モアに適してないと思っていたのだが、むしろ口数の少ない人のユ-モアほど、味のあるものになるのではないだろうか。

海軍にいたころを思い起こすと、厳しさの中にもユ-モアがあった。

(1)入隊当日、軍服一式と靴が支給され、それぞれ自分の身に合ったものを選び取った。
「あの・・・、私に合う靴がないんです」
「バカヤロ-!海軍は靴に足を合わすところだ」

(2)入隊早々のある夕食後、「全員整列」がかかった。
「お前たちは動作が鈍い。気合を入れてやるから足を開いて歯を食いしばれ!」
鉄拳が飛んできた。一発だけかと思ったら想定外の二発目に見舞われた。
「・・・西洋ではこう言うじゃないか、右の頬を打たれたら左の頬も差し出せ」

(3)連日の激しい訓練に、胃は常にハングリ-だった。みな食事準備の素早いこと。
「まるで夕暮れのカラスだ」=良い森(盛り)に集る。

(4)艦が久しぶりに母港に帰り、半舷上陸が許された。夕刻、満ち足りて帰艦した兵、
「今日はすごく良かった、M・M・Kよ」・・・もててもてて困った。

(5)久しぶりに戦地から帰ってみて驚いた。内地の女性が皆美人に見えた。
「・・・今、結婚相手を探すのは止めとこう」

(6)最前線のラバウル基地に到着、灯火管制下の夕食の卓についた。
なんと飯に黒ゴマがいっぱい降ってある。
「やはり。航空隊の給与は行き届いているなあ」
よく見ると穀象虫(こくぞうむし)だった。
「有り難い蛋白源だ、よく味わって食べよ」

(7)戦後60余年経た今も、就寝中、直立不動の姿勢でいられるのはなぜか。
「寝返りを打つと、ハンモックから落ちるからだ」

など、私には忘れられないユ-モアがある。

笑わすのを職業としている漫才師や落語家は、人の欠点を暴いたり、揚げ足を取ったりがもっぱらのネタになっているので、刹那的な笑いは喚起できるが、感動を呼び、印象付けることは難しい。オリンピックのマラソンの競技中に、谷口浩美選手が「こけちゃいました」と自分の失敗を笑っていたのは、ユ-モアの手本として尊敬に値する。このような余裕や心の豊かさは、確かに主体性の表れといえる。自分を客観視することによって、突発的な出来事にも沈着に対処できるからこそ生まれる。

さらに、大局的視野に立って見るから物事の本質を見抜くこともできる。自分を常に支配下に置き、自分を客観視できることは、すなわち自我を超越することであり、それが利他愛や思いやりの言葉となって、期せずしてユ-モアに現れるのだと思う。要するに「ユ-モアは知識やテクニックではなく、主体的な人間性、センスの問題」だといえる。

では、主体的な人間性はどうすれば作れるのだろうか。主体的というのは、自分をいったん状況の外に置いてみる、つまり自分を客観視するもうひとりの自分がいることである。私たちもが反省をするとき、必ず自分を省みる「もうひとりの自分」がいるはずである。だが自分の中に二人の自分がいるわけではない。自分は一人でなければならない。すると「ほんとうの自分」、つまり主体性の主はどちらなのかをはっきりさせなくてはならない。自分とは一体何を指しているのかを知る必要がある。この答えには詳しい説明を要するが、主題から離れるので次の機会に譲るのを諒とされたい。

航海日誌