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Vol.124 苦難をどのようにして乗り越えたか

2009/11/10

先日の衆議院選挙で自民党が歴史的大敗を喫し、新たに鳩山・民主党政権が誕生しました。思えば2009年はアメリカ・オバマ政権の誕生に始まり、歴史の大きな節目となる1年だったのかもしれません。
企業であれ国であれ「方針の大転換」や「新たなリーダー誕生」は、組織に大きな活力を与える一方で、乗り越えるべき障害も多く、苦労も多いと思うのですが、名誉顧問はそういった経験をどのようにして乗り越えられたのでしょうか?ぜひ意見をお聞かせ下さい。
(質問者:航海日誌愛読者)

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私のこれまでの人生で、障害や苦難は山ほどあるが、その中で最も悩んだと思われるものが二つある。一つは私の一身上の問題、いま一つは経営上の問題である。障害や苦難というには、それをどう受け止めどう感じるかによって、その大きさは違ったものになる。また、同じ困難な状況に直面しても、ある人は軽く考えて朝飯前のように取り扱うが、これは大変だと真剣に考え込む人とがある。いずれにしても、、私がその障害や苦難とどう取り組み、どんな結果が得られたかが問われている。

一身上の問題として、人間の共通の苦である生・老・病・死の中の最大は死であるが、誰もがいつかは自分にも死がやってくるぐらいにしか考えていない。私はそれより切実に死を考えさせられた。南方の戦場にいて、いずれ近いうちに弾に当たって死ぬことは覚悟していた。つまり一思いに死ねるものと簡単に考えていた。ところが、逃れられない死を目の前にして、どうして死ねばよいのか、積極的な死に方に悩んだことがある。

昭和19年初頭、戦況悪化のため我が戦闘機隊は急遽サイパン島へ後退が決まり、私は隊員と2隻の貨物船に便乗を命ぜられた。その頃すでに空も海も敵の手中にあり、出港した船の殆んどが沈められていた。さあ困った、弾に当たって死ぬことには少しも動じないが、船が沈めばどのようにして死ねばよいのか、最後は力尽きて海中に没し、窒息死するしかないのか。乗船の前夜そのことで頭が冴てしまって眠れない。刻一刻乗船時刻が迫ってくるが名案は浮かんでこない。懊悩の挙句、絶望しかけたとき、ハッとひらめいたのが、水中深く潜り、ある深度に達すると、水圧のため意識を失うことを思い出した。「よ-し、これならお手のものだ」と思った途端に泥のように眠ってしまった。

出航した翌日、待ち構えていたかのように空爆を受けたが、僚船のみ被弾し目の前で沈んでいった。翌々日は我が船も魚雷を受けて沈み、私は海中に投げ出されたが、いざ、というときにはあの手で死のうと確かめながら泳いだ。幸いにも救援に駆けつけた駆逐艦に救助され、潜って死ぬことから免れた。その後も南の島を転戦したが、もういつ死を迎えてもよい「大安心」の境地を身につけていた。このことから私の死生観が作られ、いつでも捨て身になれるという人生の宝を得ることができた。

次に経営者として大きな困難に遭遇したのは、わが社が創業して間もない、資本金わずか50万円、社員80名余の町工場の頃だった。乏しい頭を絞って作ってみた幼稚な油圧クレ-ンが、当時の復興景気の波に乗って全国から注文が来るようになった。早速、人員設備の増強を図り増産を期したが、思うように生産は上がらず、その原因をどうしても掴めなかった。悩みは深まるばかりか、リ-ダ-の私が迷うから職場は混乱し、お手上げ寸前の状況になった。そのとき、ハッとひらめいたのが、「お前は何のために経営しているのか」である。同時に、それに答えられない自分に愕然とし、経営の基本である企業の目的を持たずに経営していることに気づいた。

ならば、企業の目的は如何にあるべきかを必死になって求め続けた挙句、手にしたのが、ドラッカーの「現代の経営」の書だった。私が長い間悩み通し、求めて止まなかった経営の目的が明快に示されていた。「利益は経営の目的であってはならない。あくまでも経営の結果であり、企業の社会的貢献度を示す尺度に過ぎない。したがって、経営の目的は社会に貢献奉仕することにある」の一文に痛撃を食らった。

それまで、利益の追求が経営の目的だろうと漠然と考えていたが、全く違っていることを知った。もし利益追求が経営目的であるならば、その企業に関わる顧客、従業員、株主、取引先の人たち全ては、企業の利益追求の手段にされてしまう。そのような企業に存続発展はあり得ないという経営の哲学が示されていた。私は目から鱗が落ちる思いがして、この理念で経営するならば、たとえどんな結果になろうと悔いはないと腹が決まった。その精神を戴して、わが社の経営の目的は、価値を創造することによって社会に貢献奉仕することであり、そのために力を出し合おうと、創造・奉仕・協力を社是としたのである。それが長い間に培われ、会社の精神文化となり、企業風土となっている。

さらに、この経営理念は個々の人生の目的に合致することを知った。いずれの目的も世のため人のために役立つ、つまり社会に貢献奉仕することにあるからだ。「論語とソロバン」「道徳と経済」は一致するものだと、全く新しい目で世の中を見るようになった。もしあのとき、死に目に会わず、ドラッカ-の書にも出会わなかったら今日の私はない。その奇遇は天の配剤と有難く思っている。しかし、それも悩みや苦しみに真剣に取り組んだからこそ与えられたのである。

苦悩は大きいほど解決の端緒に気づき易く、「ひらめき」を生む土壌となっている。以来、苦難こそ成長進歩を促してくれる、天からの贈り物だと考えるようになり、苦難が即、快楽と思えるようになった。武人、山中鹿之助の「苦しみの、なおこの上に積もれかし、限りある身の力試さん」は、私の大好きな格言である。哲人エリッヒ・フロムも、「多くの人は、近代的進歩とは、苦痛のない状態に人間を導くことであると考えているが、しかし、真の人間の進歩成長は、むしろ、身体的精神的苦痛を喜んで引き受けるのでなければならない」と述べている。

苦難というには結局、自分の思うようにならないことに苦しむことだが、その思うようにならないことこそ私たちにとって必要なのだ。もし何でも思うようになるならば人間は必ず傲慢になり、そこには成長も進歩も起こりえない。私たちは生きている限り必ず、困難や不如意な出来事に出会うはずである。そのとき、それをどう受け止めるかによって、人生の帰趨が決まるといっても言い過ぎではない。苦難は単に私たちを苦しめるだけのものではなくて、その苦難の中に尊い教訓や幸せの種が潜んでいるかもしれないと考えてみることである。苦難を私たちの進歩向上のために利用しないのは大きな損失であり、歓迎こそすれ忌み嫌うことではない。因みに、スポ-ツ選手や登山家は常に高いハ-ドルを自らに課しているが、彼らにとって苦難は障害ではなく喜びなのだ。

航海日誌