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Vol.127 理想の夫婦像と円満の秘訣

2010/05/13

 先日、日本人として初めての「主婦」宇宙飛行士として、山崎直子さんがスペースシャトルで宇宙に飛び立ち、無事任務を終えて帰還しました。山崎さんのご主人は「専業主夫」として妻の夢を支えていることも取り上げられ、話題となりました。
 夫婦のあり方や考え方というのも、時代とともに変化するのかもしれません。最高顧問は「より良い人生を送るための理想の夫婦像」や「夫婦円満の秘訣」などについてどのようなご意見をお持ちですか?
(質問者:航海日誌愛読者)

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「理想の夫婦像はこのような姿である」とはいくらでも並べられるが、あくまでも理想であって現実的ではない。絵に描いた餅であって、きれいごとに終わってしまう。また「夫婦円満の秘訣は、これこれの条件を備えればよい」といえば読者は満足するだろうが、私にはそんな技巧的な重宝なものは持ち合わせていない。もともと秘訣とかコツなんていうのは、教えられるものではない。論理的に説明できてもそれは表面だけの模倣でしかない。芸の世界でもその真髄やコツは盗めというように、身をもって感じ取り、自分の中に創り出すものである。今回の問いの答えを一言で言うと「愛」とは何か、「愛する」とはどういうことなのかを知ることである。

「なあんだそんなことなら知っている」と思うが、今日の愛に対する考え方はあまりにも貧しい。真実の愛をどう作っていくのかということも、また、愛は努力だということすらあまり自覚されていない。これらの根底にある人間観が「どんな人間でも必ず自分の気にいるところが半分、気に入らないところが半分あるのが人間だ」ということが分かっていないことである。短所をみればきりがない、長所を発見しそれを伸ばしてあげることによって、その人を好きになっていくことができる。このことが、出会いという男女の仲で愛を育てていく原理である。お互いに良いところを指摘しあって伸ばしていって、褒めあって協力しあう、そういう努力をし続けることによって私たちは人間として真実の愛に到達できるのである。

「恋しい」という心情は、互いに離れているから生じる。一つ屋根の下で生活を始めれば恋しいという心情は消えてしまう。そこで、恋と愛とを混同してしまう人間にとって「結婚は人生の墓場」となってしまい、「もう自分たちの愛も終わったのか」と思ってしまう。しかし本当は、恋が終わったところから愛が始まるのであって、それが「恋は自然、愛は芸術」という言葉を生んだ。愛というものは恋のように自然に生まれてくるものではなく、努力して創っていく文化である。

人間を愛するということはどういうことなのかという問題は、結婚してから切実な問題として出てくるものなのである。なぜかというと、結婚するまでの恋の段階では、「あばたもえくぼ」の状態であって、とにかく全部好きといってしまいそうな状況で人間は結婚してしまう。それはどうしてかというと、「全部好き」という状態になっていないと結婚したいと思わないからだ。そのため本能的に相手を理想化し「全部好きだ」という心情になるように人間は作られているのだ。

だが、結婚してしばらくすると、「やっぱりあばたもあったんだ」となって、自分の気に入らないところもだんだん増えてきて、「どうしてこんな人と結婚したのか」とつい思ってしまう。しかし結婚した以上はちゃんとやっていかなくてはと考える。そこから本当に人間が人間を愛するとはどういうことなのかということが問われてくる。それが実は結婚生活なのである。「自分の気に入らないところを半分持った人間と一生付き合っていく」ということが結婚生活であり、それが人間を愛するということの実態であり内容なのである。

「たとえ自分の気に入らないところが半分あっても、それが人間なのだ」という人間理解を持っていなければ、誰かを愛しきり、愛し抜くことはできない。一人の人を一生愛し抜くためには、相手の気に入らないところを認め、そして許すという心情を持ってなくてはならない。愛するということは、不完全な人間が不完全な人間を愛することだから、お互いに相手の短所を認めて許すことが愛するということである。「短所がなくて長所しかないのが神」だとすれば「短所があることが人間である証拠」である。短所を許せない人間は、人間を愛する資格がなく、神と結婚するしかないということになる。だから結婚生活とは、「自分の気に入らないところを半分持っている人間を愛しぬくことができるかどうか」という問題である。そこに結婚生活に努力が要求される理由がある。

ところが現実には、ほとんどの人は「愛は努力だ」とは考えていないから、夫婦の愛はだんだんしぼんでいくという形に残念ながらなっている。多くの人は、恋の燃え上がった甘美な愛がまさに愛だと思っている。本当は恋というべきなのに、愛だと思うからややこしくなってくるのだ。とにかく愛というものは、結婚してから本当の愛の世界に入っていくということを忘れてはならない。

夫婦といえども、元は他人ということをちゃんと意識してお互いに関わらなくてはならない。夫婦になってしまうと、一体化を求める心情が働くので、どうしても自分をさらけ出して自分をつくろわず、あっけらかんとなりがちになる。そうなると相手に魅力を感じなくなるのは当然である。どこかで「夫婦といえども元は他人」というよそよそしさを残すことが、夫婦としての初々しさや瑞々しさを残し、関係が長続きすることになる。つまりどこかに他人行儀な部分を作ること、それが夫婦としての一種の節度であり、魅力を長持ちさせることになる。

言い換えれば「親しき仲にも礼儀あり」である。よく「夫婦は空気みたいなものだ。いてもいなくても気にならない」という人がいるが、そういう無自覚な関係であってはならない。だからといって箸の上げ下げまで干渉しあい、家庭に理屈を持ち込んでしまうと、家庭は必ず壊れてしまう。なぜなら、家庭は二人の愛によって作り出された理屈を超えた場所であり、理屈抜きに信じあい、許しあう気持ちがなくては成り立たない。理屈なんかで壊されない愛の強さが大切なのである。そのために「人間には長所半分・短所半分」という人間認識が必要であり、短所を互いに許しあって生きていくという気持ちが大切である。

男女の愛、夫婦の愛について私に考えを述べたが、この齢になってようやくこんなことに気づかされた。そのことによって、自分としては至福の人生を生きてこられたように思う。

航海日誌