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Lifting your dreams
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Vol.132 海外から学んだこと

2011/03/01

昨年12月に文部科学省は、2008年に海外留学した日本人は前年比11%減の6万6883人だったと発表しました。同省によると、過去最大の減少幅で「不景気による経済的な負担の重さや就職活動の早期化、学生の内向き志向などが原因と考えられる」と分析しています。 いっぽうでサッカーや野球などのスポーツや、音楽やクラッシックバレーなどの芸術をはじめ、さまざまな分野において海外で研鑚を積んだ日本人の活躍がマスコミで紹介されています。
 弘名誉顧問は社長時代、昭和35年から何度も海外へ視察に行かれていたと伺ったことがあります。海外視察で何を学ぼうとされたのか、実際に各国を訪問されて何を学ばれ、どんなことを感じられたのかお聞かせ下さい。
(質問者:航海日誌愛読者)

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私が海外から学んだことは枚挙にいとまがないが、日本を離れ外国に身を置いてみて、改めて日本がどんな国かを知り得た上、自分がどんな人間かを見極めることができたことである。その中の一つが、わが社が日本で初めて油圧クレ-ン車を作る端緒となっている。

昭和17年に私が海軍の戦闘機隊の一員として南方への赴任途中、占領後間もない*ウエ-キ島に立ち寄ったことがある。驚いたことに米軍捕虜が島内を徘徊していて、日本で見たことのないレ-ダ-設備や大型建設機械がずらりと並び、しかもそれを捕虜が運転して作業をしているではないか。飛行機整備が専門の私は、それらの機械に全て油圧が利用されていることにすぐ気が付いた。

「米軍が南方進出の飛行場建設を1ヶ月足らずで完成させる」と言われた謎が解けた。それに比し日本はシャベルと**「もっこ」、人力によるしかなかった。日本が油圧機械の未開発国であることを知るとともに、油圧利用の機械が大幅な労力の節減になることをまざまざと見せ付けられた。それがヒントになって創業間もない小企業のわが社が、無謀としか思えない油圧式クレ-ン車の開発に取り組むことを決めた。その決定は会社の浮沈に関わるかもしれなかったが、リスクを冒さなければ成長はあり得ないと考えた末の決断であった。決断することが如何に大事であるかを学んだ。

昭和35年、戦後初めて私は海外に出かけた。荷役機械視察団に加わって1ヶ月間、欧米の建機工場を見学しながら回った。そのとき特に印象に残っていることを振り返ってみると、当時の欧米の油圧クレーンの技術水準は、製品化して間もないわが社と比べてはるかに優れていることに目を見張った。直ちに帰国して、彼らと比肩できる製品を作り上げて世界市場に問えるようにならねばならないと強く感じた。

見学のない週末は自由に市内観光となっていた。サンフランシスコで夕暮れの坂道を同室の方と散歩に出かけたときのことである。お互いに話に夢中になって坂を上っていたが、前を歩いていた外国人夫婦が立ち止まったのに気づかず、私は後ろからぶつかってしまった。叱責されると思って頭を下げたのだが、かえって「I'm sorry」と言われ私はただ恐縮するほかなかった。彼らの寛容さに平伏するとともに、自分が同じ目に遭えば彼らのような態度を示せるだろうかと考えさせられた。

欧州へ渡って、ロンドン市内を貸し切りバスで見物したときのことである。休日のせいか公園には家族やカップルが広い芝生の上で降り注ぐ陽光を浴びていた。見るとカップルの殆んどが抱き合って、おまけにキッスしているではないか。私たちはそれを映画で見ることはあっても、実物に遇うことはめったにない、バスの中は総立ちになって見とれていた。しかし騒いでいるのは私たち日本人だけだった。彼らの傍を人が通っても知らぬ顔、双方とも少しも気にしていない、その自由で開放的な風情に私は心を奪われた。彼らが愛情を素直に表現できるのが羨ましくて、妬ましく思う自分を恥ずかしく思った。帰国後は可能な限り素直に愛情を表現することに努めている。

それは多分、アムステルダムでの出来事だったと思う。駅の近くのホテルに滞在していたとき、いつものように早朝の散歩に出かけた。途中、駅から吐き出された労務者らしい一群に遇ったのだが、その中の2・3人がニコッと私に会釈してくれるではないか。それも現場で働く人たちだったから、余計にオランダという国が好きになった。いい国だなあ、どこの国から来たのかも知れない異邦人の私に笑顔で挨拶できるとは、たいした国民だと思った。それ以来、彼らのようになりたいと誰にでも先に挨拶するように心掛けている。

二度目の海外視察は4年に一度開かれるドイツのハノ-バ-の国際建機展に、英語もろくに話せないのに独りで出かけた。出国前に既にホテルは満杯だったが、民泊を斡旋してくれていたから後は何とかなると軽く考えていた。ところが散々な目に遭うことになった。翌日、会場行きのすし詰めの市電に乗って、大柄の女性車掌に切符代のマルク紙幣を差し出すと、途端に大声で怒鳴られた。紙幣の額が大きすぎたらしいが、私はそれしか持ち合わせていなかった。戸惑っている私を見て、すぐ横にいた人がコインを黙って恵んでくれた。行きずりの異邦人の私に示された彼の親切は、生涯忘れることはできない。

メッセ会場から帰りの電車に乗ったのはいいが、降りる駅の名(ドイツ語は特に分かりに難い)を憶えていないことに気がついた。車窓から見て、此処らしいと思ったところで降ろしてもらったが、やはり違っていた。僅かな記憶を頼りに、神にも祈る思いで捜し歩くうち、ようやく見つけることができて、宿に帰り着いたときにはホッと安堵の胸をなで下ろした。翌日、駅の名はしっかりと記憶したのはいうまでもない。それまで独りで海外に出たことがなかったので失敗は色々あったが、貴重な人生体験となっている。

海外に出て諸外国の人たちに接してみて、初めて彼らの優れたところをうかがい知ることができたが、私たち日本人にも彼らにない優れた点が多くあることが分かった。同時に、自分という人間が如何に不完全であるかを知らされた。そして、戦後にもたらされた民主主義がどういうことかを頭の理解ではなく、体で感じ、心の奥で納得できたように思う。総じて自分が日本という国に生を受けたことを有り難く思うとともに、かつて命をかけて闘ってきたことが誇らしく思えてきた。

*「ウエーキ島」
北太平洋、南鳥島(マーカス島)の東に位置するアメリカ合衆国領の環礁。
**「もっこ」
網状に編んだ縄または藁蓆(わらむしろ)の四隅に吊り綱を2本付けたもの。吊り綱がつくる2つの環に棒を通し前後2人で棒を担いで、土や砂を運搬するのに使用していたそうです。

航海日誌