クッキー(Cookie)の使用について

本サイト(www.tadano.co.jp)は、快適にご利用いただくためにクッキー(Cookie)を使用しております。
Cookieの使用に同意いただける場合は「同意する」ボタンを押してください。
なお本サイトのCookie使用については、Webサイトにおける個人情報の取り扱いについてをご覧ください。

Lifting your dreams
検索

Vol.137 学ぶということ

2012/01/05

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

私たちは、成長過程で自然に言葉を憶えるという学習能力を身につけている。もともと自立心・向上心ともいう、学ぶ能力を持って生まれている。子供の頃から「見る・聞く・触れる」ことによって手当たり次第に習得していくが、成長するにしたがって学ぶことの範囲が絞られてくる。何を学ぶべきかを選ぶようになり、その最も効果的なものとして先師先人に学ぶことを考えるようになる。

先師先人に学ぶには何を学べばいいのか、学ぶとは一体どういうことか、誰に学べばいいのかなどを、まず明らかにする必要がある。これらをひっくるめて、先師先人に学ぶために一番大切なことは何であろうか。それは自分がいかに愚かであるかに気付くことであり、そこからおのずと先師先人にふさわしい自分をつくっていこうという気持ちが湧いてくると考える。二番目に大切なことは、先師先人の言葉の奥に秘められた叡智を知ることである。それを知るのは理屈ではなく感性による直観であり、感性は自分の愚かさを知ることによって磨かれる。

ところが、自分が愚かであると思う人はまずいないだろう。自分で賢いとは言わないまでも、誰もが平均より少しましな人間だと思っているから、大きな顔をして人前に出ることができる。それが学ぶのに大きな障害となっていることに気付く人は少ない。人は素晴らしいものを多く持っているが、不完全な生き物であることを知らねばならない。

「学ぶ」とは「まねてする、習って行うこと」と辞書にあるが、物事の原理原則を知り、それを実践によって証明することともいえる。ところがその論理的思考と実践活動とは、ほとんど私たちの理性を通じて行われるから不完全にならざるを得ない。なぜなら、私たちの理性は生まれてから覚えた言葉によって作られているから、言葉に表せられないことについては盲目同然なのである。その不完全な言葉によって作った理性は、欠陥を免れない。しかも理性は、物事を合理的にしか考えられない不完全性を持っている。

今の世の中は、合理的なことは正しくて良いことだとされている。しかし物事の本質は合理的ではないし、そもそも人間そのものが合理的にできていない。人間の求めている愛も、自由も、生き甲斐も、すべて理性に属していない。それらは考えるものではなく感じるもので、理屈を超えている。例えば、どんな豪邸に住んでいても、どんなにお金があっても、すてきな奥さんや可愛い子どもが居ても、自分が不幸だなあと思ったら不幸なのである。六畳一間で家族が寄り添うような生活をしていても、それが幸せだなあと思ったら幸せなのである。だから、理性的に考え条件を整えれば幸せになれるというものではない。実感できること、感じることによって初めて分かるのである。見る、聞く、話すことができなかったヘレン・ケラ-も「最も素晴らしいものや最も美しいものは、目に見ることも手で触ることもできない。それは感じるものです」と言っている。

幸福も愛も、自由も生き甲斐も感じるものであって、人間にとって大切だと思うものの大半は理性で考えるのではなく、すべて感性でつかみ取るものである。理性は私たちが自分で作ったもので、人間の本質ではない。感性こそが人間の本質であり、心の主体だから、感性の実感を大事にして理性を手段として使うことである。社会も人間も合理的なものだけでできているのなら、理性は万能で完全無欠である。しかし人間が最終的に求めるものは愛であり幸福であり、自由であり生き甲斐である。これら人間にとって価値あるものは、すべて感じるものである。

愛することも信じることも、理屈を超えたものである。人間を信じていきたい、愛していきたいと本心から願うならば、信じられない人間を信じあうという奇跡の決断をしなければならない。どんなことがあっても、許して、許して、許しきって生きていくところに、理屈を超えた信じあう世界が、愛し合う世界が生まれてくるのである。すなわち理性を超えた決断という奇跡的な行為が、理性で信じることができない奇跡を生み出すことができるのである。奇跡は人間の非合理的な決断の上に初めて生まれ出るのであって、合理的な考えから生まれるものではない。

先師先人から私たちが本当に知りたいのは言葉で知る真理ではなく、言葉に表せない真実であり、理屈を超えた深い人生の智慧である。真実とは、人の胸を打つものの中にしかない。人の胸を打たなかったら、それは真理ではあっても真実ではない。真実は理解でなく感じることで、言葉の奥に秘められた叡智を直観することであり、心の奥で納得し、腑に落ちることである。先師先人の教えを自らの体験を通して「ああ、そうだったのか、このことだったのか」と気付くことである。それは紛れもなく小さな悟りなのである。

その気づきは感性がもたらすのであって、ひらめき、インスピレ-ション、天の啓示、テレパシ-とも言い、感じるのは魂であり、謙虚な自己なのである。先師先人に学ぶにあたり大事なことは、学ばねばならないのではなく、学びたいから学ぶことである。その主体的自律の気概は、人間が不完全な生き物であるという自覚から滲み出る謙虚さである。

航海日誌