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Vol.139 長く生きて気づくこと

2012/05/07

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

私が90年生きてきた中で一番大きな気づきは、心の世界の移り変わりである。物心がついて以来、物の見方や考え方・受け取り方がどう変わっていったか、なぜ変わったのかである。それは同時に、私の精神的な変化を見ることでもある。とはいうものの、心というのはその所在さえはっきりしないし、自分の心でありながら思うようにならない、ある意味でこれほど厄介なものはない。瞬時にコロコロ変わりもするが、同時に心の奥に動かないものを作り出す働きもする。

私が自分の心と真正面から向き合ったのは19歳のときである。海軍では殴って鍛えるとは聞いていたが、入隊の二日目、全員が強烈な鉄拳制裁を受けた。しかも、理由はともかくそれが毎日のように続いた。私は夜になると悔し涙する日が続いたが、そのうち、涙する情けない自分に気が付き「俺はそんな柔弱な人間ではない、いかなる制裁も受けてやる」と思い直した。途端に、以後のどんな制裁にも痛みを感じなくなったばかりか、制裁を受ける度に、心と体が逞しくなっていくのを実感できた。自分を無にした行為が思わぬ結果を生むことを体得するとともに、物事は心のありようで、プラスにもマイナスにもなるのを知った。

続いて大きな精神的変化をもたらしたのは、第二次世界大戦の南東太平洋の戦場であった。連日の敵機の来襲下に、滑走路脇の軍務は毎日が生死の分かれ道だった。夕闇が迫ると「今日は無事だったが明日は分からんぞ」と自分に言い聞かせて眠ったが、目覚めとともに死の恐怖に苛まれた。そのうち「どうせ長い命ではないなら、潔くこの世とお別れしたら」と自分に問うようになった。すると、不思議に勇気が湧いてきて、思うままに行動できるようになった。「死んではならぬ、生きなければ」という頸木(くびき/自由を束縛するもの)から解放され、心の自由と平安を獲得できたのである。捨てたからこそ得られたのだが、何が捨てる気持ちにさせたかは知らなかった。

ラバウルからサイパンへ貨物船で移動の指令を受けたときのことである。当時は既に海も空も敵の手中にあり、出ていく船はほとんど沈められていた。明朝出発するのだが、船が沈めばどうして死ねばよいかを考えあぐねた。挙句の果てに閃いたのが、水中深く潜っていくと失神することである。これなら自信を持って死ねると思った途端に、泥のように眠っていた。しかし、死を決心させたアイデアがどこから出たか、半世紀も経るまで知ることができなかった。

案に違わず、出航二日目に船は魚雷を受けて轟音と同時に沈み、やむなく私は海に飛び込んだ。余裕を持って泳いでいるうちに、いつの間にか現れた駆逐艦に救助されたが、不思議に助かったという喜びがなかった。死の決行が少し延びた程度にしか思っていなかった。救助された中に、膝を打ち抜かれた兵士もいた。周りが「明日はサイパンで治療できるから頑張れ」と励まし、共に軍歌を歌っていたが、やがて寝静まった頃、冷たくなっているのに気づいた。瀕死の重傷を負いながら最後まで「痛い」の一言も洩らさず、歌いながら息を引き取った、精神力の偉大さを見せつけられた。私は震えるような思いに突き刺された。以後今日まで、私も「痛い、苦しい」を洩らしたことはない。

サイパン島や次のペリリュ-島でも全機を失う苦戦をしたが、作戦のため輸送機でフィリピンへ移動後、間もなく両島の玉砕を知った。フィリピンでは、皆も知る特別攻撃隊を戦史上初めてわが隊から出すことになった。敗戦を身近に感じていた私たちは、祖国や家族を救おうとして、爆弾とともに敵艦に突入していった彼らの出撃を総員で見送った。その時の彼らの晴れ晴れとした表情に、死を決意した後の心の落ち着きを読み取ることができた。その堂々と死を受容した姿に私の死生観は動かないものになった。「良い死に場所ができた、フイリピンの土になろう」という境地になったが、またもや死神に見放された。

昭和20年1月、転勤命令により、生きて再び見ることはないと思っていた祖国日本に帰り着いた。やがて終戦を迎えて復員、故郷の我が家の焼け跡に立ったとき、これは夢ではないかと思った。とっくに死んでいるはずの自分がここに立っているのが不思議に思えて仕方がなかった。多くの戦友が散って行ったのに、私がこうしてのうのうと生きているのが申し訳ないという気持ちになった。しかし、今あるこの命は自分のものではない、天が私に何かをさせるために必要だから与えられたのだ、そう思うことで心が落ち着いた。同時に、この命を活かさなければならないという気持ちが心の底から湧いてきて、戦後の私の人生観の出発点になっている。

その人生観は、戦後の困難な社会生活を通して充実・変容し、私の人間観・社会観を作っていった。死を決心させた閃きがどこから出たかを知ったのは、天が私を活かすために与えた命の中の「魂」であることも実感できた。残された余生にもさらに深い気づきが得られると期待している。

航海日誌