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Vol.14 なぜ幸せになれないか

1998/02/01

人は誰でも幸せになりたいと願っている。しかし、幸せとはどんなことかを確と分かっている人は少ない。だから、どうすれば幸せになれるかもはっきりしていない。私達が幸せになることは人生の究極の課題であり目的といっても言い過ぎではない。それ程重要な問題でありながらはっきりした答えがないのはどうしてなのか。

幸せというのは、実は実態のないことをどう受け止め、どう考えるかによるからである。

例えば、雨の日に、ある人は「うっとしいなあ」と感じるが、ある人は「いいおしめりだ」と喜ぶ。雨が降ると言う事実は一つでも、感じ方は正反対となる。また、石に躓いて怪我をし、血が流れているのに「ああ、有り難い」という。周りの人が「怪我をしているのに何故有り難いのか」と尋ねると、これぐらいのかすり傷ですんだのは有り難い事です」と答えたという。なお人間は小欲であればあるほど、少しばかりの物を得ても大きな喜びを味わえるのである。このように幸福に実態がないと同様に、不幸にも実態がないと言う事である。

だから、物事を不平不満で見る癖を持っていると、身の周りに起きる凡ての事に不幸感がつきまとうのである。年に一度か二度大きな喜びがある時しか幸せを感じられない人が多いが、そんな思いがけない幸せを願うより、小さな喜びを一日に一つずつ見つけていく方が、どれだけ幸せな人生になるか知れない。

このように、幸せとはこれだけの条件が揃えば得られるというような事ではない。だから、その実態のない幸せを追い求めているのは愚かなことである。

また、一切の災いの中に、幸せの芽がひそんでいるとも言える。つまり、人間は苦難や試練から多くの事を学びとることができるのである。これは、書物では学び取ることのできない、たいへん貴重な人生体験と言えよう。叩かれ、小突かれ、失敗してはじめて学び取ることができる。因ってその人の能力が開発され、人間性が鍛えられ成長、発展していくのである。なお、その結果として知恵(叡智)が身につくのである。

知恵ある人はいつも、今日のあるがままを幸せと感じ、明日のことを思い煩うことがない。なんとなれば、常に自分の所有するものは凡て預かりものと思っているから失うものは何もない。財産や地位は勿論のこと、かけがえの無い身体、眼、手足など、いや自分自身をも神の恵みによる預かりものと思っているから、もし神が返却をお求めになれば悲しむことなくお返しするつもりでいる。

幸、不幸はものごとを、どう受け止めどう感じとるかによって決まることを、いつも心に留めておきたいものである。

航海日誌