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Vol.141 心耳を澄ます

2012/09/05

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

「心耳を澄ます」という言葉をご存じだろうか。私は「心を無にして耳を傾けよ」と解釈している。心を無にするとは、虚心になる、小我を捨てるということである。無心になって何を聞くのか。私は、魂の声が聞けるのではないかと考えた。

 私たちは、知識は豊富だが知恵が不足していると言われている。知識は外から入ってくるものだから、今日のように情報過剰時代には、座ったままで耳目を外に向けるだけで十分足りる。ところが知恵というものは、何よりも頭と腹を働かさなければ出てこない。そして、知恵は内から外に向かって働くものだから、知識とは逆方向に働く。しかも、その知恵は体験を通してしか身につかない。

 なぜ知恵がなかなか身につかないのか。私たちは悩みや苦しみが身に降りかかると、逃れることしか考えないからである。だから心は常に目先のことだけに振り回され、精神の運動不足から「心の動脈硬化」を起こしている。つまり理性だけが先走りして、数字で示されるか、目や耳で捕らえたものでなければ、その存在を認めようとしないから、本当のことを分からなくしているのだ。

降って湧いたようなハプニングにどう対応するかによって、その人の人柄が分かるといわれている。そういう時、「心」を無にすれば慌てないで済むが、それは知識や教養ではなくて、俗に言う「腹」である。そういう場合、科学的合理的思考は殆ど無力となる。その時役に立つのが腹芸である。東洋ではその「腹」は、無我とか無心を前提にしている。それは本音ともいい、理屈抜きの直感であり、知恵である。またそれは、感性からしか出てこないものである。その感性は「魂」に繋がっているから強い意志となり、俗に言う「腹ができた」といわれている。

感性の有る無しが人生を大きく変えるという。しかし、今ほど感性を育て難い時代はない。贅沢や便利さに馴れてしまうとどうしても感性は鈍り、他人の痛みはどこまでも他人のもの、気の毒に思ってもほんの一瞬で、すぐ忘れてしまう。それは心に感じただけで、感性が感じ、魂が受け取っていないからである。だから、この世に生を受けたことを感謝する謙虚さなどはどこにもない。もし有効な感性の育て方があるとすれば、それは自らが苦しみ、感動に涙する想いを味わう体験を持つこと以外に無い。生身の体験が多いほど感性は育ち、人々との触れ合いの中で心が揺さぶられ、感動を味わうことによって感性は育つのである。言い換えれば、感性は自分をとことん見つめることである。自分を見つめるとは、鏡を通してではなく、自分の良い面も嫌な面も含めて、一切を受け容れることである。

 私たちは、人間の大事な機能はもっぱら知性・知能と考え、頭が良いことを一番の誇りに考えてきた。そして情緒とか気概というようなものを軽視してきたが、最近、心ある学者たちも、むしろ人間に大事なのは情緒であると言い始めた。頭が良いということは決して第一義ではない。そもそも一般に考えられてきた頭が良いというのは、機械的な理解力や記憶力が優れていることであって、真に頭が良いということは直感に優れていることでなければならない。その直感は知識からではなく、知恵からしか出てこない。知恵は感性が発達することによって培われ、強い意志や偉大な行動を生み出すのである。

その感性の源泉は「魂」であり、「心」から生まれることは無い。「魂」は誰にも備わっているが、深層心理といって意識することができず、「心」が常に表面にあって、その「心」が無心になり、虚心になれた時に初めて「魂」が現れ、感性の働きを通して知恵を生み、偉大な行動に発展するのである。「心」は人間が生まれてからの脳の働きや理性によって個々に発達するもので、常にころころ変化しているが、「魂」は宇宙の生命力に繋がっており、その働きは宇宙の意志を帯して生成発展する働きをもっている。しかし理性だけが働いて「心」が動かされていると、「魂」は隠れてしまいその声を聞くことはできない。つまり、潜在意識である「魂」の働きを妨げてしまうからである。だから「心耳を澄ます」は、「心を澄まして耳を傾けよ、心を無にして魂の声を聞け」と言っているのではないか。

航海日誌