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Vol.144 知好楽

2013/06/03

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

今月より、致知出版社発行の月刊誌「致知」のテーマをもとに、多田野 弘が高松木鶏クラブで講話した内容を掲載いたします。

5月号のテーマ「知好楽」は、巻頭言によると「これを知っているだけの者は、これを愛好する者に及ばない。これを愛好する者は、これを真に楽しむ者に及ばない。ここで言う『楽』は、趣味や娯楽に興じる楽しさとは次元を異にして、物事に真剣に打ち込んでいる時に味わう楽しさのことである。仕事でも人生でも、困難に直面するとかえって心が躍り、敢然とそれに挑戦し打破していく。そこに言い尽くせない人生の深い楽しみがある」と述べている。

「楽」には「次元を異にする楽しみ」があるというが、次元を異にするとは「楽しむ」と「悦ぶ」との違いではないかと思う。「楽しむ」は、心が満ち足りて安らぎ、思いがかない満足することだが、「悦ぶ」は「魂」が楽しく感じてありがたいと思い、感謝の気持ちがわいてくる心境を言う。「楽しむ」は、五官をつかさどる自我心の感覚的な満足であって、楽しいには違いないが一時的で、過度に求めると身を誤る。「悦ぶ」は、心の底にある魂の精神的な「楽しみ」で、ありがたく思い、感謝の気持ちがわいてきて、人格の形成にも寄与する。心と魂のどちらで楽しむか、その差は大きな結果を生むことになる。

「悦ぶ」次元の楽しみはどうすれば得られるのだろうか。「悦ぶ」という境地は、自分の命が宇宙(大自然)とつながっているのだと「気づく」ことによって得られるかと思う。前にも述べたが、人間は他の動物・植物と同じ、自然の生き物の一つであって、生きるのも死ぬのも大自然に従って行われている。大自然の恵みなしには生きられないし、死ぬことも自分の思うままにならず、お任せするしかない。昔の人たちは、このことを誰にも教わらないのに知っていたのだろうか。太陽や月に手を合わせ伏し拝んでいた。私たちの命は、自分が持って生まれたのではない、与えられたから生まれたのである。しかも、自分で生きているのではない、生かされている。それは、宇宙・大自然・神ともいう、大いなる何者かによることに気づかねばならない。

いったんこの「気づき」が身に付くと、心の楽しみより、魂の悦びに次第に魅かれるようになる。この心境は知識ではなく「気づく」ことによって得られる「直観・ひらめき」を、天啓として受け取っている。無心になった時、フッと浮かんでくるアイデアのようなもので、自分でつかんだから納得性があって身に付き、智慧となって私たちの道しるべとなる。人間にとって一番大事なことは何かという物事の重要度、優先度を示す、人生観・社会観をつくってくれる。また、「気づき」による新しい発見は、創造の楽しみをもたらし、新奇のことに挑戦する勇気を生み、変化を恐れなくなる。

このように魂の働きが極めて大きいのは、私たちの命が宇宙・大自然とつながっているという一体感が後ろ盾にあるからだ。私たちの命は魂とともに、宇宙・大自然から与えられてこの世に生を受け、役割を終えてこの世を去り、また宇宙に還っていく。生まれることも、生きることも死ぬことも、すべて宇宙とつながって行われているのである。魂にとっては、生きてよし死んでよし、すべてがOKなのだ。生きていることも死んでいくことも、魂の悦びとなったならば、最高の人生を生きたことになるのではないか。

変化は自然の現象であり、必要なのであって、仏教にも「諸行無常」の教えがあり、変化なしには何も生まれない。薪が灰に変化しなかったら風呂に入れないし、食物が変化しなかったら栄養が取れないのと同じように、私たち自身の生も死も、宇宙の自然の変化と同じで必要なのである。すべての出来事、悲劇的な出来事でさえ、宇宙がもたらしたのだと受け取れたら、私たちの苦と楽、幸不幸という物差しは無用となってしまうだろう。そして生きられる間は生き、死ぬべき時が来たら死ぬという、爽やかな生き死にの仕方ができるはずである。しかし、実際はそんなにうまくいかないだろうが、鍛錬すればそうした心境に近づくことができるのではないか。

身の回りに起きたことを、あるがままに受け入れるのは容易なことではないが、それができるようになった時に、私たちと宇宙との一体感が生まれるのである。私たちにとって不愉快に思うことが起こっても、自然がもたらすものはすべて、宇宙の秩序を維持するために役立っているのだ、という大きなスケ-ルでとらえることができれば、「死は単に自然な営みだけでなく、自然にとって必要なことである」と、素直に認められるのではないか。いろんな人が死んでいくから、新しい命が生まれてくる。死ぬことは、オリーブの実が熟して地に落ちるように自然なことで、宇宙に還っていくだけだと思って死ねる。それが社会的生き物である人間の本性にかなった生き方だと思う。

私たちは、宇宙の理・自然の法則に沿って、ほかの人々に役立つため、自分の全生涯を費やしていくことに、魂の満足と安らぎを覚える。こういう境涯を自分のものにしてしまえば、それが楽だろうか、楽しいだろうかは、もう重要な問題でなくなってくる。結局、私たちは宇宙に自然に還っていくのだということがしっかり心に刻み込まれていると、死ということを、不条理でなく自然として受け止めることができる。といって悲しみがないのではなくて、しばしの別れであり、宇宙でまた会えるのである。また会えるまで私たちは、宇宙の義務を果たすために生きるのである。

死ぬことばかり述べているように思うかもしれないが、死ぬとはどういうことかを見極めることによって、初めてどう生きればよいかがはっきり見えてくる。生きていることだけでもありがたく思える魂の悦びが生まれ、宇宙・自然からの役割を果たしているという満足感を自分のものにできる。「知好楽」の楽しさの究極は、魂の悦びを日々の生活の中に見つけていくことではないだろうか。

航海日誌