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Lifting your dreams
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Vol.145 一灯照隅

2013/07/01

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

今月のテ-マ「一灯照隅」とは、自分の周りを自分がいることによって照らすとともに、自分自身を照らすことである。つまり、自分自身を治められるようになれば、ひとりでに周りを照らすようになる。周りを照らし、周りを明るくできないのは、自分の未熟さである。

自分自身をつくっていくにはどうすればいいのだろうか。それを言うならば「己を師とするなかれ、己の師となれ」の一言に尽きる。己とは自我を指しており、自我に従って行動するのではなく、自我を支配する自己になれという。その自己こそが「ほんとうの自分」であることに気付かねばならない。自我も自分、自己も自分なのだが、誰にもこの二人の自分がいるのである。自分というのは一人でなければならないが、いずれが「ほんとうの自分」なのかをハッキリさせねばならない。

私達は何かをした後、「あ、ちょっとまずかったかな!」と反省することがある。反省を必要とするようなことをしたのは自我であって、まずいと気付いたのが自己なのである。その自我というのは誰もが持っているもので、私達が生まれてから言葉を覚え、事実と照らし合わせながら理性によって長い間につくられたものであって、利己的・合理的にしか働かない不完全なものである。そんな自我はなくしたいだろうが、自我は決してなくならない。それよりも、自分は不完全な自我を持っているという自覚さえあれば、その方がはるかによい。そのとき初めて自我を客観視できる場がつくられ、自己の出番がもたらされるからだ。

では、もう一人の自分である「省みる自己」とは何者だろうか。私たちは何気なく自分のことを、私・俺・僕などと表現しているけれど、一体何を指しているかを見定めることによって自己の正体が分かるのではないかと思う。「ほんとうの自分」とは何かを、平成17年2月の例会で、「私とは何を指しているのか」と題して述べている。「自分」を表現するのに普通は姓名を用いているけれど、名前は単なる標識であって、変えられるから自分という人間の実態を表していない。では、この身体が「自分」だと言えるだろうか。身体は約六〇兆個の細胞で構成されていて、3カ月から2年の間に入れ替わってしまうから、2年ごとに別人になってしまうので身体は「自分」ではない。

身体でないとすれば、精神(心)こそ「自分」だと思うだろうが、そうではない。心というのは、生まれた時は純真無垢で心には何も持ってないが、言葉を覚えることによって理性が発達し、本能と環境に影響されながら心がつくられていくのである。従って、心は自分がつくったものでコロコロ変わるから「自分」の実態ではない。身体でも精神でもないとすれば何がほんとうの自分なのか。しかと自分を客観視する動かない自分が、誰にもあるはずである。それを私は自己と言い、魂と呼んでいる。身体は精神で鍛えられるが、精神は魂でしか鍛えられない。

魂という言葉はいろいろな意味に解釈されていて、死後は霊魂と呼ばれたりしているが、全く趣を異にしている。先月のテ-マ「知好楽」で、私たちの命は魂とともに、宇宙・大自然から与えられてこの世に生を受け、役割を終えてこの世を去り、また宇宙に還って行く、と述べた。この宇宙から与えられた魂の存在に気付く時、予想外に大きな働きをもたらしてくれる。昔、武士道として切腹の掟があった。いざというときに潔く死を受け入れた「忠臣蔵」の四十七士が、今も人気が衰えないのは、人間の魂の偉大さに感動せずにいられないからである。

近世になると大和魂などと称され、また戦時中には特別攻撃隊と名付けられて、爆弾を抱いて飛行機もろとも敵艦に突入する必死行が連日行われた。私はフイリッピンの基地で彼らの出撃を帽を振って見送った。昨日まで言葉を交わしていた同じ年ごろの戦友が、いつもと変わらず淡々と機上から手を振って死地に突入していった。従容として死地に赴く彼らの姿は、もう人間ではない、神の化身かと見まがうほどの崇高さを覚えた。数時間後の自分の死の運命をあのように受け入れることができたのは、魂の力によるほかない。本能や理性の働く自我からは決して生まれることはあり得ない。このような体験から、自分の心の奥の魂の存在に気付かされた。

私達の誰もが、自分が思うようにならないことに悩む場合が多いのは、自分がつくった自我に牛耳られ、自我を師としているのに気付いていないからではないか。自我を制御し、自分を思うようにできるのは魂でしかない。私が毎日、アラ-ムなしの早朝起床、ジョギング、庭のプ-ルでの一泳ぎ、正月の海での寒中水泳を四十数年続けてこられたのも、懸命に努力したからではなくて、魂の声に励まされての行動としか考えられない。このような、魂が己の師となった生き方が「一灯照隅」と言えるのではないだろうか。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談より』

航海日誌