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Vol.146 歩歩是道場

2013/08/01

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

今月のテ-マ「歩歩是道場」は言うまでもなく、私たちの毎日を心身鍛錬の道場と心得て生きよ、という戒めの言葉である。これを完全に励行できればいいのだが、「言うは易く行うは難し」で実効が難しい。誰もがそうありたいと思うが、いつの間にかその思いは消えて元の木阿弥になっている。私もその苦い経験を何度も味わっている一人である。では、どうすればこれを実行できるのだろうか?

毎日が心身鍛錬の道場だとすると、一日中気を張り詰めて、油断なく自分を叱咤激励し続けなければならない。が、人間はそんな長い間の緊張に耐えられるようにはできていないから、無理な相談である。気の弱い真面目人間はストレスで病気になりかねない。でも、私は90年の体験を通して、誰でも完全実施できる手立てが必ずあると思う。

「歩歩是道場」を決心しても長く続かないのはなぜだろうか。その訳は、人間には宿命の「業」(我またはエゴ)があるからだと思う。私たちはもともと、少しでも楽をしたい、いい思いをしたいという欲求を持っており、それが業である。仏法にも「欲を捨てて無欲になれ」と説かれており、そんな欲などなくしてしまえばいいではないかと言うが、人間は欲の塊であって、欲をなくしたら人間でなくなって仏になってしまう。従って、生きている以上、欲はなくなることはないし、なくする必要もない。むしろ欲求は否定するのでなく、肯定的に考え、活用することを考えたらどうだろう。

肯定的に考えられる一番の根拠は、欲求は人間の成長進歩を促す原動力になるからだ。しかし、人間の欲求には、成長進歩を促す高次元のものと、堕落させる低次元のものがあることに注目せねばならない。従って、私たちの持つ欲求の質を、小欲から大欲へ、小我から大我へ高めていく必要がある。欲求の質を高めるとはどういうことなのか、またどうすれば高められるだろうか。それにはまず、私たちの欲望の中身がどんなふうになっているかを見る必要がある。

人間の欲求の中で最も基本的でしかも強いのは、生理的欲求である。食物、水、空気などがなくては生きていけない。マズロ-は、この物質的・生理的欲求を一番基本的で低次な欲求として位置付けている。本当に食べられない状態に追い込まれると、ほかの何よりも食べることに必死になる。ところが人間は、生理的欲求が満たされてさえいれば、それで満足かというとそうではない。次には、我が身の安定した、安心できる状態への欲求が現れる。

では、生理的に満たされて安定した安全な環境に置かれていたら、人間はそれでもう満足なのかというとそうではない。さらに、人から愛されるということ、家族の中に所属し、自分の居場所があることへの欲求が出てくる。生理的欲求と安全欲求がある程度満たされると、今度はそれが当たり前となって、所属と愛こそが切実な問題だと感じられるようになる。このように欲求には段階がみられるのである。

では、生理的欲求や安全性、愛と所属の欲求が満たされれば、人間は満足しきって幸福かというとそうではない。さらに、他者から認められたい、自分に自信を持ちたいという思いが生まれる。人は誰でも、認められ、尊敬されたいという承認欲求がある。だとすると、他者から承認され自尊心を持つことができ、人から尊敬されるようになっても、なお満たされないものがあるのだろうか。それは、自分の可能性を最大限に実現したい、自分にしかできない独自の生き方をしたい欲求であって、前に述べた四つの欲求が満足された場合に現れる「自己実現」の欲求である。

このように人間は果てしなく欲求する生きものであることは間違いない。マズロ-は「人間というものは、常に何かを欲している動物であり、満足の状態に到達することはほとんどない。一つの願望が満たされるとそれに代わって別の願望がひょっこり現れる。それが満たされるとまた別の願望が前面に現れるといった具合に、全生涯を通じて常に何かを欲し続けるのが人間の特徴である。」と言っている。「食足りて礼節を知る」ように、低次元の欲求がある程度満たされると、より高次の欲求が出てくる。つまり、次々と起こる欲求の充足は、人間性の成長を促し、健康なパ-ソナリティーをつくるものだと考えられる。

さらに重要なのは、これまでの宗教の修行に見られた、欲望を否定し、自己超越へと追い詰める、少数のエリ-ト修行者しか通れない道ではなくて、欲求を肯定しての自己実現を経て自己超越に到達する、無理のない誰にも開かれた道がある。私がこれまでの例会で述べた、魂の目覚めと、宇宙とのつながりの発見である。「己の欲するところに従って矩(のり)を超えず」の、悟りの境地が得られるのである。歩歩是道場について私の考えを述べてみたが、なぜそう考えるようになったかを調べてみたい。

以上のような考えが私の中に培われたのは、主として青年期に海軍で過ごした一年間の基礎教育と三年余の戦場の体験がその基礎になっている。入隊した最初の一年間は、毎日が緊張のし通しで、気の休まるのは厠とハンモックの中だけだった。毎日と言っていいぐらい教官から「気合が入っていない、たるんいでる。そんなことで命を的にして戦えるか・・・」といって、鉄拳の制裁を受けたからだ。私はその都度、絶対服従の、牛馬に等しい扱いが悔しくて唇をかんだが、何度か経験するうちにふと「少々殴られたぐらいで怯むような自分ではないはずだ。また教官は、私たちを早く一人前に仕立ててやろうと思っての制裁なんだ。」と思い直してみた。

途端に、不思議にも制裁が少しも苦にならなくなった。それどころか、進んで受け入れるようになり、自分に起きたすべての出来事は必要だから与えられたのだと、肯定的に受け取れるようになった。同時に、人間の欲求が成長進歩を促し、苦痛を楽しみに変えられることが潜在意識に吸収されて自分のものになったように思う。以来、意識して緊張しなくても、終日きびきびした行動が自然にとれるようになり、進んで苦難に挑戦する気構えができた。従って歩歩是道場の実践は、終日気合を入れてやるのでなく、潜在意識による自然な行動が成功の鍵ではないだろうか。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談より』

航海日誌