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Vol.147 その生を楽しみ、その寿を保つ

2013/09/02

いくら歳をとっても、やれるもんだよ。(多田野 弘)

今月のテーマは「人生を楽しく生き、与えられた寿命を全うせよ」という、よく耳にする言葉なのだが、これをテーマに取り上げられたのは、この平凡な言葉の中に大事なエッセンスが隠されているからだと思う。かけがえのない人生を楽しく生きたいと思うのは、誰もが持つ共通の願いなのだが、そうはうまくいかないのが私たちの人生である。その代表的なのが「生、病、老、死」の四つの苦であり、さらに、自分の思うようにならないという苦しみが山ほどある。こういった苦しみの中で、楽しく天寿を全うするには、どのように考え、どう生きればいいのだろうか。

私の考えは「当たり前のことを感謝し、喜べること」の一語に尽きると言いたい。当たり前だと考える筆頭は、私たちが生まれたことである。そして有り難いとは思っていない。自分が生まれる意思がなく、頼んで生んでもらった覚えもない。しかも、自分は何も貢献してないのに生まれている。与えられたから生まれた命には間違いないが、命は何によって、どうして与えられたのだろうか。

誰から生まれたのかは、言うまでもなく両親である。そして両親はそのまた両親から生まれており、そのそれぞれの両親は、そのまた両親から......。これを十代さかのぼると、その数は1024人、二十代にさかのぼると104万8576人の先祖がいて、この中の誰一人欠けても私たちは生まれていない。私たちがこの世に生を受けられたのは当たり前ではない。奇跡といってもいい、感動すべき出来事なのであって、これほど有り難いことはほかにないだろう。私は、何よりもこの素晴らしい日本の国と両親の元に生を受けたことを、有り難いと思わずにいられない。

さらに、私たちが「生きていること」も当たり前ではない。私たちは誰の力も借りず、自分の意思と力で生きていると思いがちだが、とんでもない錯覚である。その証拠に私たちが眠っている時、意識がないのに呼吸をし、内臓の諸器官は瞬時も休むことなく動いてくれている。それは自律神経の働きであり、その自律神経は脳幹によって動かされると医者はいうが、その脳幹がどうして働くのかは、医学上いまだに解明されていない。すると何が私たちを生かしているのだろうか。それは私たちの人知の及ばない宇宙・大自然の意思によるとしか考えられないではないか。昔の人は誰にも教わらないのに、それを天、神、仏と呼んでいて、子供が生まれると「天から授かった」といって拝んでいた。

私たちは動物や植物と同じ大自然の中に生きる生き物の一種であって、空気や水なしに、自然が育む植物や動物を食べずには生きていられない。全ての生命を育む太陽と地球と星を含む宇宙とのつながりの中で、私たちは生きることができている。つまり生かされているのである。私がこれを知ったのは知識ではない、戦時中に何度も生死の境を超えてきて初めて、自分は生かされているんだと身を持って実感したのである。それを分かりやすく伝えたいのだが、真実は言葉になりにくく、理屈でなく感性で捉えてもらうしかない。知識で知ったのは忘れても、感性でとらえたのは納得できて身に付く。

生まれたこと、そして生かされていることのほかに、当たり前だが有り難く思うことがもう一つある。それは、人間には本来、欲求の苦しみが与えられていることである。苦しみがなぜ有り難いかというと、苦があるからこそ楽しみが分かるのであって、苦が少しもなかったならば、何が楽しいかを知ることができない。つまり、欲求が強いほど成長進歩をもたらし、苦しみが多いほど、少しの楽しみが大きく感じられる。苦しむことの中に楽しみが秘められているのである。

先月にも述べたが、マズローの五段階の人間の欲求がそれぞれかなうことによって、心が満ち足りて安らぎを覚え、楽しみとなり、その楽しみが次々と高次元への欲求を生みだす要因をつくっている。すなわち、欲求を追求していく苦しみが、結果的に楽しみをつくり出しているのである。何十トンもの飛行機が空中に浮かんで飛行できるのも、空気の抵抗があるから揚力がつくられて、どこまでも飛んで行くことができる。人間も同様に、欲求の苦があるからこそ、どこまでも成長進歩できるのであって、苦が有り難いことなのは間違いない。

長寿を保つのは誰しも願う生涯の課題だが、長く生きればいいということではなく、どのように生きたかがもっと大事なことである。たとえ短命であっても「あの人は素晴らしい生き方だったなあ!」と、後々まで語り継がれるような生き方でありたい。自分らしく生き切り、鼻や口に管を通して延命を図りたくない私は、卒寿を記念に尊厳死協会に入会した。そして自分の可能性を追求するべく、毎日を、これ以上の生き方はないといえるものにしようと、ない頭を絞って原稿を作り、臆面もなく老醜をさらして顰蹙(ひんしゅく)を買っている。

自分が生まれ、今生きているのは当たり前ではない。生かされている存在であることを心底から受け入れ、人生に苦があることをも有り難いと思えるかどうかが、「その生を楽しみ、その寿を保つ」ことを決定づけてくれる。

『高松木鶏クラブ 多田野 弘顧問談より』

航海日誌